初夏の晴天に恵まれ5月8日、
『雑司が谷みちくさあるき』第1回
「古地図を片手に雑司が谷の坂道を歩こう」を開催しました。
多くの方にいらしていただき、ありがとうございました。
集合場所 100年以上前に建てられた雑司が谷旧宣教師館
そこから
明和9(1772)年に描かれた「雑司が谷村絵図」に記載されている
古い崖沿いの道を、道なりにカーヴしながら本浄寺方面へ下っていきます。
崖下から古い甍がのぞく
この建物は大正時代の古い民家で、
雑司が谷が舞台になっている小津安二郎の『東京暮色』に
坂の上からこの民家を撮ったカットが使われているとも云われています。
不忍通りを渡った反対側、目白台方面の急斜面を眺める
高低差10m以上はありそう。
この坂の上には、腰掛稲荷が鎮座されています。
三代将軍徳川家光(大河ドラマお江の息子)が、
この丘の上に腰掛け絶景を楽しんだことが、
この神社の名前の由来ですと、崖の上を指して先導者が説明しています。
不忍通りを渡って雑司が谷側に戻ってきました。
やや下っていくと、永禄4(1561)年に現在の雑司が谷の鬼子母神に祀られている
鬼子母神像が発見された場所、
お穴の鬼子母神(清土鬼子母神)へ通じる路地があります。
かつてはこの境内の裏側、さらに低くなった所を弦巻川が流れていました。
『江戸名所図会』(天保年間1834〜36年刊行)の中で
「清土 星の清水」として描かれています。
涼月塚 文化9(1812)年銘のある 芭蕉の句碑
「此道に出て涼しさよ松の月」と、刻まれています。
この境内の西側はまた崖になっており、
大きな高低差によって、
かつてはここに弦巻川から流れ込んだ滝(「お鶴ヶ滝」)が
あったと云われています。
その崖の擁壁に這う蔦
かつて弦巻川が流れていたと云われる路地
現在の弦巻通りから一本北に入っています。
先はそのまま日本女子大の寮の敷地内へ続いているので、
弦巻川は、今の女子大寮の敷地を、
西から南東へと横切るように流れていたようです。
弦巻川から女子大寮の敷地横を北へと上る古い坂、
かつて金山稲荷があったので「金山坂」とか、
姉妹の幽霊が出たので「幽霊坂」とか呼ばれていました。
この坂は明和の村絵図には載っていませんが、
嘉永7(1854)年十月調「雑司ヶ谷付近図」
(『御府内場末往還其外沿革図書附図』より)には
記載されています。
金山稲荷は、崖沿いにありますが、
この崖の斜面から脇差しをさした遺骸が出てきたため、
その場所に稲荷の祠を祀ったと云われています。
鎌倉辺りで「やぐら」と呼ばれる、
山の崖に穴を掘って死者を祀る古い墓制が見られますが
この辺りにもあったのではないかと思われます。
今はお社も解体されて存在しない金山稲荷へと続く脇道
坂の脇には崖もせまっています
坂を上っていきます
女子大寮の敷地に沿って北へ、その後ぐるっと巡り西へ
この道も崖沿いの道、古くからある道で、なんとも趣があります。
崖沿いの道を西から北へとカーヴしながら下っていくと
今の弦巻通り商店街(赤丸ベーカリー横)へと下る「みなみ坂」へと出ます。
この辺りは戦前、「雑司が谷字美名實」という地名でした。
その坂を下らないで、また東へと上ります。
大正末年に菊池寛が文藝春秋を営んでいた菊池寛旧宅跡へ出ます。
川端康成も横光利一も、小林秀雄もきっとこの坂を何度も上ったことでしょう。
その菊池邸の横に、石畳の趣のある路地があります。
菊池寛の息子は、この路地の奥に住んでいた友だちを持っていたそうです。
息子は父の菊池寛から
「この辺りで一番偉いのはあの子のお父さんだよ」
と、いつも聞かされていたと云います。
その友だちの父の名は、諸橋轍次。
世界一の漢和辞典『大漢和辞典』を編纂した、まさにその人。
『大漢和辞典』は、昭和3(1928)年に、
この路地の奥でその長い長い編纂の作業を始めたのです。
坂を上り路地をうねり、雑司ヶ谷霊園の南の端に出ます。
ここから坂をまた下ります。
この坂は、「御嶽坂」、蛇行しながら下っていく古道
かつてこの道を、多くの参詣者が江戸から鬼子母神へと向かいました。
雑司が谷随一の坂道です。
先に旧宣教師館から下っていた古道を
逆に鬼子母神方面へと辿る古道の一部であり、
明和年間の古地図にもこの坂の脇に多くの民家が記されています。
江戸時代に「町」として起立した「雑司が谷町」の中心もこの辺りでした。
『江戸名所図会』に描かれた「御嶽坂」
坂下に今も遺る弦巻川に架かった石橋の碑
享保18(1733)年の銘が見えます。
坂の脇には、
かつてのお鷹部屋(今の雑司ヶ谷霊園の西半分)にあった
白鳥稲荷があります。
祠は新しいですが、
石製の鳥居と手水鉢には、
それぞれ文化11(1814)年と安永7(1778)年の銘があります。
(詳しくは豊島区立郷土資料館紀要『生活と文化』16号所収
秋山伸一「雑司が谷御鷹部屋に関する基礎的考察」を参照してください。)
この「御嶽坂」を下った地点は、
かつては坂上にある清龍院
(清立院のご住職さんが「龍」の字が正しいと仰っていました)の
境内の一部でした。
清龍院は「御嶽山」の山号を持ち、御嶽権現を祀っています。
今回のまちあるきでのハプニングは、
この坂上の清龍院境内から遠く新宿方面を眺めていると、
清龍院のご住職さんが本堂に招いてくださり、
御嶽権現の御像を見せてくださったことでした。
小さな御像でしたが、とても力強いお姿でした。
この御嶽権現は、長く雑司が谷の鎮守であったと古書
(寛政年間に金子直徳によって刊行された『若葉の梢』)に記されています。
「御嶽坂」下は、
現在も「御嶽坂」だけでなく、霊園から下ってくる坂道、
さらに坂下にある寶城寺、その横の道など、
四方から「気」が流れ込む場所にあり、
雑司が谷にとって大変重要な場所であったと思われます。
野辺送りなどもここでされたにちがいありません。
雑司が谷と云えば、ねこちゃんですが、
この「御嶽坂」にいつもいるねこちゃんが人気もの「みたけちゃん」です。
この「御嶽坂」下から今度は雑司ヶ谷霊園へと坂を上ります。
この坂も古くからあるのですが、残念ながら名前はないです。
雑司が谷にある坂道に、それぞれ由緒のある名前が付くといいなと思います。
清龍院の下の擁壁には、愛らしい仏さまたちがいらっしゃいます。
坂を登り切ると雑司ヶ谷霊園。
木漏れ日が土に優しい。
道から少し霊園内に入った所に、
やさしいお顔の石仏(宝永5年 1708年銘)がいらっしゃいました。
『雑司が谷みちくさあるき』ぞうさんぽの会では、
第2回目以降で、
雑司ヶ谷霊園の石仏(江戸期の石仏が50体くらい眠っていらっしゃいます)や
樹木をめぐるおさんぽ会を計画しています。
その後、今度は都電の脇に出て、そこを下ります。
今回の坂道上り下りも、これで最後。
下ったところには、都電を線路下から眺めることの出来るガードがあります。
直ぐ脇に大鳥神社。
大鳥神社境内には、昭和7(1932)年に弦巻川が暗渠になったときの
工事の記念碑が遺っています。
そして、終着の鬼子母神境内へ
樹齢六百年と云われる大銀杏の周りには、
鬼子母神堂が建立される前から此の地にあった
村の鎮守・武芳稲荷が、今も祀られています。
おさんぽ記事、これでおしまい。
終業後、明治通りの向うにある
「KAKKA cafe」さんで、参加者と歓談致しました。
こういう時間があるのもとても良いですね。
KAKKA cafeさんは、雑司が谷近辺では貴重な広い店内をお持ちで
大人数でお茶をするには最適な場所です。
一杯だてのハワイコナベースのブレンドに、手作りのケーキ美味でした!
KAKKA cafe HP
http://cafekakka.blogspot.com/
参加者のみなさんから集めた会費は、以下のような収支で
「あしなが東日本大地震・津波遺児募金」に寄付いたしました。
参加者の皆様からの会費一人当たり 500円
参加人数 8名 合計 4000円
諸経費
ペットボトルお茶代 875円
資料作成費用 1255円
経費合計 2130円
諸経費を引いた残金 1870円
「雑司が谷みちくさあるき」事務局
ぞうさんぽの会、諸経費分を寄付 2130円
合計 4000円
振り込み用紙通信欄に
「雑司が谷のまちあるきで参加者の方が寄付して下さった浄財です。
遺児のみなさんのためにお使い下さい。」と、書き添えました。
フランスのrandonneeと呼ばれるものに随分行きましたが、元々自然より都市が好きなので、こういうのが面白そうです。
ただ、最初から坂道はきつそうかな・・・まずは平地歩きからにします!
レス遅くなってしましましたが、
コメント、Merci!
randonneeってのがあるんですね。
サイクリングの一種か知らん?
東京近辺でも自然に親しむまちあるきは多いので、ぜひ参加してみてください。
今回は「坂道」と言ってもせいぜい標高差10mくらいですからそんなに大変なルートではありませんでしたよ。
あ、それから雑司が谷にはフランスやイギリスの方も住んでます。東京の新宿と池袋の間にあるのに自然が残っているからだと思います。
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