「雑司が谷 みちくあるき」
第2回「観光案内では紹介されない
ディープな雑司ヶ谷霊園めぐり」
前夜の嵐から澄み切った秋空になった11月20日
「みちくさあるき」第2回 雑司ヶ谷霊園の江戸期の石仏めぐりを行いました。
霊園は舗装されていない所も多いので、足下が少しぬかるんだ所もありましたが、
雨上がりで、樹々や墓石がとても美しく見える日和でした。
私自身も、これほど美しい霊園はあまり見たことがないようなひと時でした。
集合場所が旧宣教師館だったので、
霊園の南側から、近い順に江戸期の石仏(主に石仏の形をした墓石ー「石仏墓石」)を拝見しました。
雑司ヶ谷霊園の地図と、
参考文献として拙稿「雑司ヶ谷霊園の江戸期石仏」
(豊島区郷土資料館紀要『生活と文化』20号2011年3月)を配布。
めぐる前に、参加者の皆さんにも言ったのですが、
こうして見てめぐることは、遠い江戸時代の人々を思い、
亡くなった魂への畏敬の念を持ち、とぶらうことでもあると思いつつ、廻りました。
なので、これは一種の「巡礼」なのだと、私は個人的に思っております。
最初の仏さま、私がこの会をなぜやりたかったかは、
すべて、この仏さまのご縁だと思っています。
今回は、「日本石仏協会」役員の小松光衛さんもご参加、
詳しく説明してくださりました。
(「日本石仏協会」HP http://www1.pbc.ne.jp/users/sekibutu/ )
小松さんによれば、この石仏は、たぶん墓石ではなく
広く人々の、または無縁者の、供養のためのものではないかということでした。
光背に戒名はなく、
「二月十五日乃至法界平等利益敬白」と刻まれています。
「法界」は「衆生」総て、ひいては「無縁者」という意味、
これらの人々が総て「平等」に成仏するということを、意味するようです。
「二月十五日」(如月の望月のころ)は釈迦の入滅なさった日です。
この仏さまのあるこの墓所は、今「無縁」化して、
東京都から撤去告知がされています。
(墓所権利者と10年以上音信不通の場合「無縁墓所」と見なされるようです。)
無縁の衆生のための石仏が、無縁だからという理由で撤去廃棄されうる。
これが、現在の東京都立霊園の現実です。
私が石仏協会の小松さんと知り合いになれたのも、
この仏さまを救いたくて、石仏協会にお願いしたことがきっかけでした。
そして、今回の霊園めぐりを企画したのも、
少しでも多くの方に、霊園のこの仏さまをの危機を知っていただきたかったからです。
(少子化の今日、今後霊園では多くの墓石、石仏が無縁化して廃棄されていくことが予測されます。)
この日、多くの方に参加していただき、
「無縁」から縁を結んでいくことを、有り難いことに
既にこの仏さまはしてくださっていると、思いました。
撤去告知板が付いていた白い棒の先端を持って、みなさまに説明。
今は、もう撤去告知期間が過ぎたので告知板はなく棒だけしかありません。
告知期間が過ぎたということは、
法的には、東京都はいつでもこの石仏を撤去廃棄することができるということなのです。
以前は、このように樹々のもとにお座りになっていました。
まるで若き釈迦が菩提樹の元で結跏趺坐されているようなお姿でした。
撤去可能となったので、樹々が取り払われて裸にされてしまいました。
この仏さまの前で、石仏協会の小松さんの説明を聞く参加者のみなさん。
次にご案内したのは、霊園の一番東、比較的新しい墓所の多い区域にある
如意輪観音さま。
二臂(腕が二本)の半跏像。霊園の如意輪さまの殆どは二臂でいらっしゃいます。
光背の舟形の丸み、お顔の柔和さ、霊園の中でも屈指の美しさだと思います。
次の仏さまは、
たいへん小さく愛らしいので、みなさんしゃがんで拝見しています。
寛文年間の銘のある愛らしい聖観音菩薩さま。
よくみると、僅かにお顔を傾げていらっしゃるようにも見え、
その微妙なラインが美しい。
小松さんが、聖観音の頭部に小さく刻まれている化仏の阿弥陀如来様や
左手にお持ちの、未だ開いていない蓮のお花の説明をしてくださいました。
次に向かったのは、寛文より少し後の延宝年間の阿弥陀如来さまで、
霊園にある阿弥陀さまは先に紹介した坐像のものと、
次の立像のものと2体しかありません。
ところが、、、
「わぁ〜倒れていらっしゃる〜〜」、思わず私は声をあげてしましました。
震災以来、ここは訪れていなかったので、3・11で倒れてしまったのかもしれません。
以前は、このようなお姿でした。
次は、霊園で最も古い年代の銘の刻まれている仏さまです。
聖観音菩薩さま、慶長15(1610)年銘。関ヶ原の10年後、大坂の陣の4年前に当たります。
この仏さまは、圓常寺さんというお寺と共に
元浅草吉野町から大正2(1913)年に雑司ヶ谷に移っていらっしゃいました。
霊園内には、お寺の墓所ごと移ってきたと思われる区域がいくつかあります。
ぽってりとしたお姿は、江戸初期石仏の特徴と思われます。
この仏さまよりも小ぶりですが、似たものが、神楽坂赤城神社境内にあります。
そちらの仏さまは、慶長18(1613)年銘。
江戸の石仏で、慶長年間にものは大変珍しいと思います。
雑司ヶ谷霊園は、よく江戸時代には将軍のお鷹場だったと説明されますが、
それは今の霊園の西北の部分だけで、他は、雑司ヶ谷の名主などの屋敷地でした。
みなさんが見上げているのは、名主の屋敷の周囲にあった
屋敷林の名残と思われるけやきの樹々。
写真左からまん中へと樹が直線的に並んでいます。
そのような江戸期の名残を見て、
次に訪れたのは、明治期の『風俗画報』に絵を描いていた浮世絵画家
尾形月耕墓所にある二体の石仏。
この墓所も無縁化して撤去告知がされていましたが、
どうやらお継ぎになる方が見つかったようで、今は整備されています。
その後さらに、霊園の森の中へ
すると、大きなけやきに、凭れかかるようにいらっしゃるお地蔵さまに出会います。
私はこのお地蔵さまを初めて見たとき、
これは雑司ヶ谷霊園そのものだと、感じました。
江戸の屋敷林の名残の樹にそっと寄り添う江戸の仏さま。
自然と仏さまとが一つになって、かつての人々の思いを私たちに伝えてくださる。
それを感じることの出来る空間、それが雑司ヶ谷霊園だからです。
この仏さまは、ちょうど今から200年前に造られたものです。
200年という時間を越えて今、私たちの前に立っていらっしゃる
有り難さを、霊園を歩くと方々で感じます。
ひとりの人としての一生の時間のずっと向こう側に
霊園を歩くと出逢える、それが雑司ヶ谷霊園の魅力だと思います。
霊園の石仏の殆どはお地蔵さまです。
死んでからの六道それぞれで人を救ってくださり、
特に亡くなった子どもたちを守ってくださるというお地蔵さま、
その信仰が、墓石にお地蔵さまを刻ませたからなのでしょう。
これはまた小さく愛らしいお地蔵さまです。
先のお地蔵さまが錫杖を持っていらっしゃったのに対して
こちらは、宝珠を捧げていらっしゃいます。
年代も貞享年間ですので、古いものです。
草むした枯葉の合間にそっといらっしゃる。
こうした風情も、未舗装の部分が多い雑司ヶ谷霊園ならではの趣です。
野の仏というものが、かつて江戸近在にもあったと思われますが、
今は失われた、野の仏の佇まいを髣髴とさせてくれるのです。
みなさん、野にしゃがんで拝見。。。
こちらは錫杖を持っていらっしゃる。
小松さんの解説によると、
関西のお地蔵さまの錫杖はもっと長く背丈ほどあり、
関東のものは、この仏さまのように錫杖が短くなっているそうです。
お顔も摩滅していらっしゃいますが、それがまた野の仏の風情を感じさせます。
このような野の仏の趣は、霊園が未舗装の路を残しているからなのですが、
現在、雑司ヶ谷霊園管理事務所は、霊園の総ての路を舗装しようと計画しています。
近隣の住民でつくっている「雑司ヶ谷霊園 みどりの会」は、
それに反対して長年話し合いを続けています。
その会長さんは、雑司ヶ谷に住んでいた作家、菊池寛のご長男さんでしたが
惜しくも今年の6月にお亡くなりになりました。
今後、私たちの世代が、それを受け継ぎ、
今のような雑司ヶ谷霊園を守っていけるように、勤めていきたいと思っております。
さて、そんな霊園の森をちょっとこわ〜いお顔で歩いているのは、、
明治通りにある古書往来座のご主人でした。。(^^)
往来座主人が霊園あるきの様子を書かれたブログ→ http://ouraiza.exblog.jp/16855744/
森の中を歩いていると、向こうに美しい墓石がありますね〜
と、みなさんでやってきたのが泉鏡花墓所。
これはもちろん江戸のものではありませんが、
霊園にある有名人の墓所でも、もっとも美しいものなので、ご紹介しました。
森の中で、すっとまっすぐに立っていらっしゃるお姿、
それに墓石がまた美しい。
小松さんのご説明によると、
この墓石、よ〜く見ると細かなつぶつぶがある石とのこと。
それがまた景色になっていて、だから味わいがあるのでしょう。
先ほどしぶ〜い表情だった往来座ご主人といっしょに、
後ろからお顔を出しているのは、この「みちくさあるき」で事務局をしてくださっている
雑司が谷 旅猫雑貨店店主の金子さんです。
旅猫さんは、「アド街ック天国」雑司が谷編でも詳しく取り上げられましたね。
旅猫さんのブログ→ http://tabineko.seesaa.net/
黄葉の中に宝篋印塔、江戸期のものも沢山ありますが、それはまた別の機会に。
徐々に霊園の西の方(都電の方)へ
こちらに来ると、だいぶ視界が開けてきます。
霊園に一番西の端に
二体のおおぶりな仏さまが並んでいらっしゃいます。
特に寛文の如意輪観音さまは、
江戸時代初期のぽってりとした質感と、
寛文期の端正さとを合わせもった雰囲気を醸しています。
光背の上部の丸みも際だっています。
さて次はと、、いう途中で
おひとりで何かに見入っていらっしゃるどうぞうさん
こちらは、霊園では珍しい六臂(腕が六本)の如意輪観音さま
大きな敷地の墓所の周りを囲んでみなさんで拝見。
光背には、尾張犬山城主だった旧大名家の家紋も刻まれています。
その大きな墓所の、通路を挟んだすぐ後ろには、
やや小ぶりながら雰囲気のある立派な宝篋印塔があります。
この塔は、先にご紹介した聖観音菩薩に次ぐ
慶長18(1613)年の銘が刻まれていて、
所謂「墓石」としては、霊園の中で最も古いものになります。
台座に刻まれている「慶長十八暦」という銘。
うっん、またまた往来座さん、、(^^)
どこへ行くのかな〜〜
次は小松さん曰く、本日の最高傑作。
他の多くの江戸期石仏と同様「浮き彫り」なんでしょうが、
背後の光背が石仏を包んでいるというよりも
「丸彫り」をした仏さまに光背が付いているようにさえ見えます。
そのくらい、彫像がはっきりと刻まれている傑作でしょう。
同じ墓所には、天和2(1682)年銘の地蔵菩薩さまもいらっしゃいます。
この近辺では江戸初期の石仏の良いものが並んでみられます。
もう少し奥の方へ行き、垣根で囲われた一画の中をのぞくと、
小さな仏さまたちが、ぐるりと並んでいらっしゃる
特別な空間に彷徨いこみます。
左のお地蔵さまは、お顔がおにぎりのような三角形で愛らしい
お顔も風化して銘も読めないお地蔵さまですが、
これもまさに野の仏という趣のある仏さまでした。
枯葉や木の実が土の上に落ち幾重にも堆っていく、
当たり前の自然の営みの美しさが、霊園には今も遺っています。
そうした土を踏みしめて一番奥へとずんずん進んで行くと
霊園事務所との境界にあるフェンスのそばに
無縁となったと思われる三体のお地蔵さまが並んでいらっしゃいます。
かつての霊園管理者が、無縁となった石仏を廃棄するのに忍びなく
こうした措置をなさったのだと思います。
今後も、無縁化した石仏がこのよう場所にに保存されていくと良いのですが、、、
かがみ込んで見ていらっしゃる参加者のみなさんも、愛らしいですね、、(^^)
さて、今日の霊園めぐりもあと一ヶ所。
西北の区画から霊園事務所を過ぎ、
三嶽坂方面へ下る坂の手前に行くと
ちょっと変わった形の石仏に出会います。
これは、「石幢」(せきどう)という形態として分類されています。
六角で六地蔵を彫るものが江戸期から増加しましたが、
元来は中国からのもので、11世紀中国のものは→
http://d-archive.kyuhaku.jp/da/collection/info/id/4/
なので、やや特殊で珍しいものですが、
護国寺にも六地蔵石幢はあります。
小松さんの推察だと、
上部の笠部と下部の土台は後で付け足されたものではということ。
確かに石材が違っている。
銘がないので、いつ頃のものかは分からないが
仏さまのお顔など、江戸期のものと思われます。
この石幢のある区域は、深川共葬墓地からの改葬碑のあるところで
他にも傷んだ石仏が数体並んでいたり倒れていたりしています。
奥に見える丸いドーム型のものは深川墓地の無縁墓石。
また、この石幢、よく見ると
お地蔵さんが、楽器を持っていらっしゃり、
これは珍しいかもしれません。
雑司が谷にお住まいだった民俗学者の三吉朋十(みよしともかず)さんは、
その著書『武蔵野の地蔵尊 都内編』(昭和47(1972)年)の冒頭で、
霊園のこの石仏を「雑司ヶ谷墓地の六面塔」として紹介され、
次のように述べられています。
「塚のかたわらの一隅に高さ四〇センチばかりのきわめて低い、やや丸みのある
六面塔を安置する。天蓋は四角形、蓮台はなく短躯の立姿地蔵六尊を浮き彫りする。
そのうち、一体は鼓と撥をもち、一体は鐃(どら)をもつ異形の塔である。
深川にあったものを移転したものであるが、台石はなく、造立年代は不明。」
さて、この日の霊園石仏めぐりも、これで終わり。
素晴らしい天候にも恵まれ、
霊園内に点在する江戸期の石仏をみなさまにご紹介できて、有り難い一日でした。
また、次回も雑司ヶ谷霊園に関わる
「みちくさあるき」をしたいと思っております。
参加していただいたみなさまのアンケートなどは
また次の機会にご紹介します。
Merci mille fois〜!
一方では、無縁墓地が次々と生まれて、管理者から「撤去」の告知板が目に付きます。
心配しているのは江戸期からの、優れた石仏・墓石が処分される危機が迫っていることです。どうか、墓地の開いたスペースに移動して、安置して欲しいと願うばかりです。お手伝いしたいです。
ご感想、また当日は色々とありがとうございました。
少子化の影響で、墓地の無縁化はどんどん進んでいます。
それらをただ撤去するのではなく、
何らかの供養、保存の方法を考えていきたいものですね。
お墓は、個々の家のものであると共に、
社会全体の記憶、思い出の源泉であり、
共同体の祈りの場であると、私は感じております。
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