それほど暑くもない皐月日和に、
「みちくさあるき ぞうさんぽ」を開催することが出来ました。
このまちあるきも、今回が3回目になります。
今までの記録は以下の通りです。
第1回「雑司が谷 坂道篇」
http://michikusa-walk.seesaa.net/article/200354663.html
第2回「雑司ヶ谷霊園の江戸期石仏めぐり」
http://michikusa-walk.seesaa.net/article/236529245.html
さて、今回は、
雑司が谷でも、まちあるきや七福神めぐりが盛んになってきたので、
そういう一般的なコースとは違う、
よりディープな雑司が谷を訪ねたいというテーマの基に企画しました。
大きな目玉は、
長年雑司が谷に住まわれている方に、
かつての雑司が谷の事をお伺いするということでした。
これは私自身も、
街あるきをしつつ、
ただそこを通り過ぎるだけでは何となくもの足らない。
もっとその街に深く近づきたいという思いが常にあり、
そこから発想した企画でした。
街と共に生きてきた、その街のひとのお話しを伺いつつ
その街の小径や花々の、その先にあるものたちに思いをはせる。
そういう「まちあるき」っていいなあと、思ったのです。
そこで、
かつて池袋から雑司が谷を経て江戸川へと流れていた
弦巻川の流れを記憶していらっしゃるやおやのおじいちゃんと、
御屋敷が明治半ばまでは、今の雑司ヶ谷霊園の敷地にあった
旧家のご婦人に、お話しをしていただきました。
まずは、その1として
雑司が谷1丁目坂の下にある
やおやのおじいちゃんと弦巻川の流れを辿ったところを
ご報告します
おじいちゃん、お生まれは?って伺うと
「大正10(1921)年から大正7(1918)年の間」なんて、答えてくださいました、、(^^)
早速、昭和7(1932)年に暗渠化した弦巻川の流れを教えていただく。
かつては、サンカ研究者で池袋文芸座を経営していた作家三角寛の居宅だった
料亭寛の裏手当たりに向かう。
撮影 金子佳代子
現在の日本女子大の寮の敷地を突っ切るように
弦巻川は流れてきたらしい。(ということは、現在の弦巻通りよりも北側)
そしてこの辺りには大根の洗い場があったという。
(大根の洗い場は弦巻川ではそこいらにあったらしい)
この弦巻川の流れの説明の途中で、
一行は、衝撃的な光景に出会う。
撮影 金子佳代子
崖が切り崩されている。
崖上に見えるのは、日本女子大の寮の建物。
川が流れていた辺りが台地の真下であることがよく分かる。
しかし、衝撃だったのは、そのことではない。
「ここはね〜金山稲荷。ちゃんとお社があったんだ。
かつてはちゃんとお祭りもやっていた。
なさけねぇ〜が、しょうがね〜」
この切り崩された場所あった
金山稲荷は、この辺りでは最も古く由緒のある社だった。
第1回の「みちくさあるき ぞうさんぽ」で
紹介した明和9(1772)年の「武州豊嶋郡雑司谷村」絵図にも
赤くお社が描かれ「稲荷」と記されている。
→ https://michikusa-walk.up.seesaa.net/image/zousigayamura120E381AEE382B3E38394E383BC.jpg
また、金子直徳の『若葉の梢』寛政10(1798)年、
戸張平次左衛門苗堅が天保末年(1840年頃)にまとめた『櫨楓』でも、
わざわざ一節をさいて「金山稲荷社」と大きく取り上げられている。
この日のまちあるき後に、私が聞いたところでは、
お社がどこかに遷座されたという話は無いという。
雑司が谷にとって、
とても大きな文化的歴史的損失で、残念としか言いようがない。
さて、気を取り直して、
ここから、今の弦巻通りの一本裏の細道ぞいに流れを辿る。
途中からは、現在は民家が建っている中にもわけ入っていく。
撮影 金子佳代子
道ばたには井戸もあった。
そして、流れは、
おじいちゃんのやおやさんの裏手を通り
お店の横(東側)から現在の弦巻通りに出る。
撮影 金子佳代子
ちょうど、ここにはかつて菊池寛が住んでいた邸宅があった。
一行の向こうに見えるマンションの角に植わるデイゴの樹は
その名残だという。
おじいちゃんの話は、ここで一転菊池寛邸の話に移る。
「ここら(跡地に立つ今のマンションの入り口辺り)に門があってね、
奥に車寄せのがあってね、
立派な白樺の木がね、3本か4本あったんだよ。
木造の三階建てでね。
まさかぁ〜ここが菊池寛の家だとは知らなかったけどねぇ〜」
「1週間に1回くらい紙芝居を読んでくれてねぇ〜金平糖もくれたよ。
当時の普通の紙芝居を見るのは1銭か5厘くらいしたからね〜
ここのおやじんとこなら、タダだし金平糖もくれたからね。
お庭も広くってね、チャンバラごっこをよくしました。
でも、私がね菊池寛という人を知ったのはずっと後、
中学になった頃かな。偉い人なんだと思いましたよ。」
「でもねぇ〜ここの息子も(菊池寛の長男)
こないだ亡くなっちゃったしね。
若いもんの方が先に逝っちゃうからね、ほんと淋しいよ」
と、一通り菊池寛を巡る話はここで終わる。
このおじいちゃんによる菊池寛の話は、
実は、笙野頼子の『幽界森娘異聞』(『群像』2000 年3月〜10月、後に単行本)の
冒頭にそっくりそのまま出てくる。
笙野頼子は以前、雑司が谷に住んでいたので、
このおじいちゃんから取材したのかもしれない。
作中で主人公が鷗外の娘(森茉莉)の幻想を見るのは、
まさにこの菊池寛邸跡地に建つマンションの前で、である。
さて、弦巻川の流れに戻る。
おじいちゃんの話によると、
このマンションの南側(不忍通り方)へ流れ
そこからお穴の鬼子母神(清土鬼子母神)方面へ蛇行したという。
しかし、今の地形からすると不忍通りへと川が登っているように見える。
「こっちはね、もっと低かったのをね、盛り土して高くして、
で、不忍通りの方は低くしたの。
昔は、こっとはもっと平らで、不忍通りはずっと高いところにあった。」
要するに、弦巻通り側はもっと低くて、
不忍通りまで平らで、急な崖のようになっていたということらしい。
その後、一行はお穴の鬼子母神(清土鬼子母神)へ向かう。
江戸名所図会巻四 天保7(1836)年の「清土 星の清水」
(図を一度クリックしてさらにクリックすると鮮明で大きな画像になります)
同書の記事には
「この地を清土といふ。蒼林の中に小社あり。
則ち雑司ヶ谷鬼子母神出現の地にして、
同じ神を鎮れり。社前にある所の井泉を星の清水と号く。
往古鬼子母神出現の頃、この井に星の影を顕現せし事ありし故に名づくといへり。
(その井桁の形三稜なる故に、三角井とも字せり。)」
七つに枝分かれした「七本杉」はもうないが、
現在もこの地は、大きなけやきなどに囲われ清涼の地。
鬼子母神像が出現した所ということで、
毎年10月に行われるお会式の御練りも、ここから出発する。
現在の三角井戸
護国寺の西側には
「星谷」(ほしやと)と呼ばれる所もあり、
修験者が星祭りを行ったとも云われている。
『豊島区史 通史編一』(p205)は、
この星谷(星跡)が弦巻川周辺の谷地に開けた
中世的な農耕地の名残りだと、している。
「清土」(せいど)と云う地名も「星戸」の音読みであり、
この辺りが、弦巻川を利用した古い農耕地だった可能性は高い。
興味深いことに、
『若葉の梢』は、先の金山稲荷から東側の
この近辺を「神田久保」と記しており、
まさに、神田明神の「神田」に通じる
農耕地の原初的な場であったと考えられる。
さて、その弦巻川の流れ、
おじいちゃんの記憶だと、
『江戸名所図会』に描かれた北側ではなく、
南側(不忍通りの方)を通っていたと、云います。
ここも、今では、お穴の鬼子母神から不忍通りにかけて
崖ではなく、ゆるやかな坂になっているが、
以前は、急な崖だったとのこと。
確かに、金子直徳の『若葉の梢』でも、
この辺りに「お鶴が滝」があったとされており、
もっと高低が激しかったのかも知れないし、
高地の不忍通り(江戸期は清土道)に対して
崖下のこの地では、川の流れが時代によって微妙に
蛇行したのかもしれない。
これにて、「やおやのおじいちゃんー弦巻川の流れ」篇はおわり。
おじいちゃん、今後もお元気で、ありがとうございました。
(つづく)
三角井戸の祠、左横に
「此道に出て涼しさよ松の月」と芭蕉の句が記された「涼月塚」が見える。
この碑には「文化九年壬申九月 杲山一元誌 杉浦一成 發起了道」とみえる。
「杲山」は金子直徳の号の一つだから、金子直徳の真筆と考えられる。
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