都電鬼子母神前から鬼子母神参道のけやき並木へ
ここに入ると、ふっと風が吹き涼む。
この並木は、
鬼子母神像が星跡(清土)付近で発見された永禄4(1561)年から
17年後の天正6(1578)年に初代の鬼子母神堂が造営された頃の、
天正年間(1573〜92)に
雑司が谷の名家長嶋内匠家から寄進されたのが始まりだとされている。
江戸時代には料理茶屋が建ち並び、
夏目漱石の祖父は、この並木の入り口左側にあった茗荷屋
(大田南畝とも交流のあった文人狂歌師沖右衛門が経営、
彼が友人のために建て南畝が揮毫した月花塚が本納寺にある
http://www.honoji.or.jp/s_kuhi.html )で
酒宴の席で頓死したと云われている。
手創り市で賑わう鬼子母神境内を横目に法明寺へと下る
道が三つ叉になっているところに
「南無妙法蓮華経 威光山」と髭文字で刻まれた大きな題目塔が建っている。
これは、『若葉の梢』を著した金子直徳が文化8(1811)年に建てた。
右面には法明寺が威光寺として弘仁元(810)年に創始されたこと、
左面には祖師堂が飛騨の匠により造られ、吾妻鏡を引用し「源家御祈禱堂」だったと記されている。
現在の法明寺の縁起文は、同年にに金子直徳が作ったとされているが、
法明寺のHPなどはこの縁起をそのまま用いている。
http://www.homyoji.or.jp/history/index.html
不思議なことに、
現在の鬼子母神堂(三代目)は寛文4(1664)年に建てられてから
一度も被災していないのに対して、
法明寺は江戸時代から何度も被災している。
最も大きなものは、
天保元(1830)年9月23日の自火と、
昭和20(1945)年4月13日のアメリカ軍による破壊であり、
どちらの時もそのほどんどの堂宇が焼失している。
なので、金子直徳が題目塔に記した
飛騨の匠作の祖師堂は、少なくとも天保年間には失われている。
天保年間に刊行された
『江戸名所図会』(法明寺、鬼子母神の記載がある巻四は天保7(1836)年刊行)
を見ると釈迦堂もしっかりと描かれて、
本文にも
「本尊釈迦多宝両如来の像を安ず 其余堂中に千躰仏を安ず」と記載されている。
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しかし『江戸名所図会』は、寛政年間から編集されており、
また、雑司が谷の寺社について大変詳細に記述している
『櫨楓』(天保末年頃に戸張平次左衛門による)には、
祖師堂は天保12(1841)年に再建されたが、
釈迦堂は「焼失後未再建」、客殿も「焼失後今に不立」と記されている。
故に、この『江戸名所図会』の絵は、天保元年の焼失以前の
法明寺の姿を描いていると見るべきだろう。
この鮮やかな絵図は、関東大震災で被災した後の
昭和7(1932)年に伽藍を再建した記念の絵葉書の外袋である。
(古書往来座 提供)
明治44(1911)年に山下重民が編集した『大日本名所図会第九十二號』
(東京名所図会西郊之部)には、
法明寺の主な堂宇は、祖師堂と本坊、庫裏と寺中に真乗院、観静院、玄静院と
記載され、
江戸時代、千体仏で有名だった「釈迦堂は今はなし」とされ、
この時点でもなかったようだ。
この書には写真も幾らか載っていて、
祖師堂は茅葺きの古色蒼然とした佇まいで、
興味深いことに、祖師堂のすぐ横、今の本堂へと向かう門の奥には
鳥居が見えそのまま威光稲荷へとつづいているように見える。
本堂が今の位置になかったのだろう。
それが先ほどの絵葉書の写真によると、
昭和7(1932)年には、こうなっている。
左手の祖師堂と中央の本堂へと続く門と、ほぼ現在の並びと同じだが、
一番右にある小さな門は、実は威光稲荷へ至る門である。
瓦屋根で再建された祖師堂(城北空襲でアメリカ軍により破壊される)
現在の祖師堂、
戦後、鬼子母神に遺った御供所をここに移築し祖師堂としている。
威光稲荷へと続く門
「開運威光稲荷尊天」と刻まれた碑が建っている。
この門をくぐってさらに行くと、
「雑司谷威光稲荷産道開運門」という立派な別の門が出てくる。
そこを更に奥へ入ると、威光稲荷の本堂に至る。
門の方が立派に見えるくらいだが、
この本堂はこの時建て替えられたわけではなく、
以前からあったものだったのかもしれない。
大変不思議なことには、この威光稲荷に関して書かれた文献が皆無なのだ。
『江戸名所図会』も『東京名所図会』も触れていないし、
『若葉の梢』も『櫨楓』にも全く記載がない。
法明寺境内で説明を聴くみなさん 撮影 岩田智明
さて、現在の威光稲荷への参道は、
祖師堂の左、法明寺墓所との間の細道を
東通りへと向かう途中の右手に忽然と出てくる。
今回参加され雑司が谷に以前からお住まいの方でも、
この参道は知っているが、中に入ったことはないという方が
特に女性には多かった。
確かに昼なお暗い雰囲気で、
女性が一人で入っていくのは躊躇されるかもしれない。
この参道、突きあたりを右に折れ、またすぐに左に折れ、
石段を幾らか上って(この辺りで法明寺本堂の裏手になる)、
さらにまた左に折れ石段を上ると、やっと本堂に至る。
まさに迷路のようであり、稲荷の本領発揮のような異空間へと導かれる。
ところが、この稲荷、多くの稲荷がそうであるようにまだこの先がある。
本堂の右に今度は石段を下ると奥の院に至るのだ。
この奥の院には方々に沢山の小さな祠がある。
稲荷ではこうした小さな祠を「塚」というらしいが、、、
ここには実は、本物の塚とおぼしき丸い小山があるのだ。
これは古墳だろうか、、、?
稲荷の総本山伏見稲荷も、元々は古墳群の稲荷山だったという。
威光稲荷には、伝説がある。
弘仁年間にこの地を訪れた慈覚大師円仁が、
天から光が射して鮮やかに輝いている地があるのを見つけ、
そこはとても尊い土地だからと、祠を建てて祀った。
それがこの地に祠ができた縁起であり、
この時慈覚大師が見た「光」から「威光」と云うのだそうだ。
法明寺の元寺とされる威光寺と同じ開祖の伝説だが、興味深い。
この丸い塚が、慈覚大師を導いたのかも知れない。
この稲荷には、文献に記載される以前の
古いぞうしがやの土地の記憶が漾っている気配を感じる。
ぞうしがやの古層を感じつつ、
こうして漸く盛りだくさんだった今回の「ぞうさんぽ」も終了。
みなさん、ありがとうございました。
本日、霊験あらたかということで、初めてのご挨拶にお参りさせていただいたものです。
最後の写真、キツネさんのようなものは何なのでしょうか?現地で見てから気になっています。落書き?
それと奥の院の塚はやはり古墳なのでしょうか。かつてこの周辺に古墳があったというのは聞いてませんが・・・。
こちらのブログ、歴史がけっこう詳しいのでちょくちょくおじゃまさせて頂きます。
ありがとうございます。
コメントをお寄せ下さり、ありがとうございます。
最期の写真は、雑司が谷で時折見かける
「落書き」と思われ、地域の人達は「猫」と思ってみていますが、
確かに威光稲荷の門前ですので、
これは「おきつね」さんにも見えますね、、 (^o^)
また、奥の院の古墳のようなものは
神社の方は「お塚」と呼んでいて、
稲荷の総本山伏見稲荷の「お塚」という言い方から来ているのかもしれません。
伏見稲荷は実際に「古墳」のあった場所に建てられたと云われていますので、
この威光稲荷のものも「古墳」であるかもしれませんが、調査がされてないので、
「謎」です、、 (^o^)
ただ、雑司が谷の南、高田付近は
江戸時代には「百八塚」と呼ばれた古墳の密集地だったようで、
最初の「富士塚」と云われていた
「高田富士」も実は古墳を一部削って作ったと云われていますし
雑司が谷に古墳があっても不思議ではありませんね。
東京には実は古墳がたくさんあります。
特に「聖地」とされている所は、以前は古墳だった所が多いです。
有名なのは上野と芝、徳川将軍家の墓所は共に古墳の後に作られています。
芝の増上寺の西にある丸山古墳は今もはっきりと前方後円墳の形が遺り、
しかもその上に登れますから、
一度ぜひ登ってみて、前方後円墳の形を実感してみて下さいませ。
「ぞうさんぽ」は次回は6月初め(たぶん8日)に行うつもりですが、
その他に
雑司が谷の古書店、ジャングルブックスさんで
「寺社仏閣の会」というのもやってますので、
ご縁がございましたら、ご参加下さいませ。
→
http://jbooks.exblog.jp/19802302/
http://jbooks.exblog.jp/19802466/
大変丁寧な解説、ありがとうございます♪
実は神社と古墳を巡るのが趣味のひとつでございまして、関東に越して以来、地元の千葉県の古墳をもっぱら巡っております。
神社にはよからぬモノが佇んでいることもありますので、やたらな神社には詣でませんが、歴史とそこに住む人々の生活、神々さまに思いを馳せております。
東国の歴史は実に楽しいです♪
ご案内の方も、機会がありましたら是非参加致したく思います。
ありがとうございます(^-^)/
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