2013年06月12日

第5回みちくさるき ぞうさんぽ 「護国寺、雑司が谷 寺まちあるき」


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梅雨時にしてはさわやかな日和に恵まれた
6月8日(土曜日)、「護国寺 雑司が谷 寺まちあるき」を行いました。
多くの方が参加いただき、ありがとうございました。

当日の様子を
「みちくさあるき ぞうさんぽ」の事務局になっている
雑司が谷弦巻通り「旅猫雑貨店」さんが撮ったお写真と共に(一部を除く)ご紹介致します。



集合場所は、
漱石の「夢十夜」で運慶が仁王を彫り出していた護国寺仁王門前

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ここから護国寺に入らず、
先ずは、旅猫さんのおすすめの吹上稲荷へ

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護国寺の丘陵の東側を取り巻くように流れていた
水窪川のあとを辿りながら行くと
やはり井戸があったりする。紫陽花が奇麗に咲いている。
江戸東京は、丘とその脇の川が多いが、
護国寺の台地は、東にこの水窪川、西には弦巻川が流れ、
台地の南、今の音羽通り(西の目白台、東の小日向台に挟まれた低地)の東西を南下して
江戸川(今の神田川)へと合流する。


吹上稲荷境内へ

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御由緒
元々は江戸城の吹上にあり、
その後、小石川の吹上坂(今の播磨坂の一本南の坂、こちらの方がずっと古道)に移り、
明治末年に現在地にご鎮座。

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このお稲荷で、有名なのは
江戸で最古のおきつね様像と云われている
この像

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「宝暦十二歳」(1762年)と銘が見える。

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吹上稲荷の奥には大塚先儒墓所(江戸期の儒者墓地)があるが、
また次の機会に。







さて、同じ道を護国寺へと戻る。

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こちらは先ほどの仁王門とは違う惣門(表門)
将軍お成りの際の正門で、大名屋敷と同格の形式を備え、
「護国寺」の扁額がかかる。
(仁王門には「神霊山」の扁額)





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『江戸名所図会』(天保7年 1836年)に描かれた
護国寺境内





この門の先には、今は幼稚園があるが、
この辺りは明治期頃までは池があった。
先に護国寺の台地を東西から巻くように二つの川が流れていると述べたが、
護国寺境内と今の皇室墓所の間にはわずかな谷があり
その谷を流れ込んできた水が、この辺りに溜まり、池となっていた。


明治10年(1878年)に記録された護国寺境内図にも、池が見える。
(クリックすると拡大します)

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境内の木陰を借りて、
護国寺の説明
その際に使った「護国寺年表」
→ 護国寺年表.pdf

護国寺と現在の皇室墓所(豊島岡墓所)の地にあった護持院(筑波神社別当寺)の関係、
その江戸から明治までの変遷を年表を使って説明。



護持院は、筑波山知足院中禅寺として平安時代からの歴史を持っており、
江戸にそれができたのも、護国寺よりも古い慶長15年(1610年)(年表参照)
その後、将軍綱吉の保護下で、神田橋外に巨大な伽藍を有していたが、
享保2年(1717年)の大火で類焼し、吉宗によって今の護国寺の地に移される。



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『江戸名所図会』に描かれた護持院
(右手前の「惣門」が現在の護国寺惣門、その奥に池が見える)



護国寺と護持院は、名目上は別寺院だったが、統合されて、
護持院住職が、護国寺住職を兼帯する時期が多くなり
明治に至った。
そのため、護国寺としては、
江戸後期は護持院支配下に甘んじた時期ということになる。

ところが、
明治政府の伝統文化破壊政策「神仏分離」「廃仏毀釈」によって
筑波山別当護持院は破却され、江戸の護持院の寺領は護国寺のものとなった。
(護持院はその後、昭和5年に筑波山の寺院は再興され
「知足院中禅寺大御堂」として現存している。
→ http://hello-tsukuba.jp/feature/oomidou/ )



護国寺は「悉地院」という院号を持つが、
(本堂に五代将軍綱吉の揮毫による「悉地院」の扁額が掲げられている)
「悉地」という言葉は、
語源はサンスクリットの「Siddhi」で「成就」という意味であり、その音訳。
真言密教(護国寺は真言宗寺院)で「悟り」を開くという意味となった。
「Siddhi」は、釈迦の別名である「シッダールタ」 Siddhattha(目的を達成したもの)と
同じ語源の言葉でもある。





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境内には、こうした大きな灯籠がある。
この灯籠は「有徳院殿」とあり、上野寛永寺の吉宗の霊廟御前にあった灯籠と思われる。
寛永寺や増上寺にあった将軍家霊廟は、アメリカ空軍の蛮行のより無惨にも焼失した為
その墓前にあった石灯籠も、方々に散逸している。

散逸した増上寺、寛永寺の灯籠を調査しているサイトもある
→ http://members.jcom.home.ne.jp/tom-itou/
このサイトによれば、護国寺には3基の将軍墓所の灯籠がある。





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本堂へと通じる石段下の左右に大きな水鉢が置かれている。
これは桂昌院が寄進した、護国寺創建当時の元禄時代のもの。


石段を登っていくと、
大きな本堂が目に入り、壮観。

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この本堂は、元禄10年(1697年)に元あった本堂を移築して
新たにより大きな本堂として建てたもの。
元の本堂は、今の祖師堂の所に移築されたが、惜しくも大正15年の火災で焼失。
今の祖師堂は、その後に以前の薬師堂(元禄14年、1701年建立)を移築したもの。
(薬師堂には一切経堂を移築した)






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本堂前の、大変装飾的な銅製の灯籠
西洋のマニエリスムさえ感じさせる

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銘には、貞享2年(1684年)とあり、この灯籠が今の本堂ではなく
最初の本堂の前に置かれていたものである事が分かる。
銅製灯籠は、上野の東照宮に多く残っているが、
護国寺の似た形式のものは、寛永寺根本中堂前や大師堂前にある。
寛永寺は上野戦争で灰燼に帰しているので、
現在の根本中堂は明治期に、家光所縁の川越喜多院から移築されたものだが、
元の根本中堂(今の東京国立博物館前の噴水辺にあった)が落慶したのは
綱吉の時代の元禄11年(1698年)で、護国寺とほぼ同時期。
この時代のスタイルなのかもしれない。

寛永寺HP
→ http://kaneiji.jp/syodou/





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当日は、ちょうど月に一度の護国寺骨董市と重なっていました。


本堂の東側の傾斜を降りていくと、
(皇室墓所との間にある谷へ向かっていく方向)

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大師堂横には「一言地蔵」さん
一つのお願いだけを聞いてくださるそうな。


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傾斜面には石仏がたくさん並んでいる。
その一つ、元禄2年(1689年)銘の青面庚申塔(六手剣人型か)
足下には三袁ではなく邪鬼。



さて、本堂の東側には、
護国寺の歴史を変えた墓所がある。
護国寺は将軍家祈願所であり、檀家寺院ではないので、
江戸時代には境内に墓はなかった。
歴代住職の墓は、境内外の墓所にあった。
それが一変したのが、この墓所の存在によってだった。


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少し読みにくいが、画像をクリックして拡大すると、
墓碑に「故権典侍(こごんのないしのすけ)正五位葉室光子墓」と、ある。
葉室光子は、中級貴族葉室家(西園寺家の分家)の出での明治天皇の典侍。
明治6年(1873年)9月に皇子稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこと)を出産したが、
母子ともに亡くなった。
(この時の産科医はフォン・シーボルトの娘いねであったという)
これは明治天皇の最初の子供で、東京に皇室が遷ってからの
最初の皇族の死者である。

この時、政府はかつての護持院の跡地に
皇室専用の墓所を作る。
それが今にも続く、護国寺の東にある皇室墓所「豊島岡墓所」である。
稚瑞照彦尊は、その最初の埋葬者となる。

一方、母であった葉室光子は、
皇后ではない、ただの典侍にすぎず、皇族として埋葬される事はなかった。
(唯一成人した皇子、嘉仁親王を出産した柳原愛子の墓所も祐天寺にある)
そこで、皇室墓所の隣、護国寺境内に墓所が築かれた。
円墳のようなこの型の墓は、明治期に作られる神道式の墓の特徴である。


同年、11月には、
今度は、皇女稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)が生まれたが同じく死産。
母、橋本夏子も死去。
橋本家も中級貴族で、皇女和宮の母、観行院(橋本経子)もこの家の出身で、
橋本夏子の大叔母にあたる。
観行院は和宮共々、将軍家墓所増上寺に葬られているが、
明治天皇の典侍、橋本夏子は、葉室光子と同様、護国寺に墓が築かれる。



こうして、護国寺の東に皇室墓所ができ、
皇室としては葬れない内侍の墓が護国寺境内に築かれたことで、
護国寺は、皇族に連なる埋葬地と見なされ、
明治政府の高官達の墓所として、にわかに注目を集める事になる。

明治24年(1891年)に逝去した三条実美の巨大な墓所が
護国寺本堂裏に築かれ、その後、大隈重信や山県有朋らの墓所もつづく。

かつて、将軍家祈願所だった護国寺は、明治政府の高官の墓所になるという
皮肉な繁栄を、明治期にしていくことになる。




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本堂から東の谷へと向かう崖地




本堂の東から向こう側(北)へと回ると、
今度は、護国寺唯一の大名の墓所、
松平不昧公(松江藩第七代藩主、松平治郷)の巨大な五輪塔に出会う。

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この墓は本来、ここにあったわけではなく、
関東大震災で松江藩の江戸菩提寺が大きな被害を受けたことを受け、移された。
不昧公の墓所をここに改葬し、
明治後期から昭和初期までに
護国寺を大改造したのは、数寄人高橋箒庵(そうあん)であった。
この方は、三井財閥の大番頭であり、護国寺檀家総代だった。
護国寺を「東の大徳寺」にしようと、
数寄好み、茶人好みの寺に変えていく。
本堂の西に今ある、
重要文化財「月光殿」は、あの園城寺(三井寺)から
品川御殿山の原六郎邸(今の原美術館)を経て移築したものだし、
「多宝塔」は、石山寺の多宝塔を模して、昭和13年に新たに建立したものだ。
ほかにも六つのお茶席が移築されている。
お茶を習っていらっしゃる方なら、一度は護国寺でのお茶会に招かれているのではないだろうか。


松平不昧公所縁の不昧庵に関する記事
→ http://www.sanin-chuo.co.jp/shashin/modules/news/article.php?storyid=510460203



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歴史ある建物に美しい花菖蒲、数寄の心が今も変わらず。




本堂の裏手を回って西側に出ると、
薬師堂がある。
先にも述べたように、これは、旧一切経堂を薬師堂として移築したもの。
一切経堂は今の多宝塔のあたりにあった。(先の『江戸名所図会』参照)
元禄4年(1691年)建立なので、古風な雰囲気をたたえている。



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さて、江戸時代の護国寺は巨大寺院だったが、
西側の斜面には西国三十三カ所礼所が模されて設置されていた。
これは主に個人の寄進によって、一つ一つの建物が造られ
宝暦10年〜寛政6年にかけて35年ほどの間に、三十三カ所が完成したらしい。
(年表参照)


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『江戸名所図会』の西国三十三カ所写しの部分、
富士講のものと思われる富士山もあり、
この富士山は、現在は場所をかえ、本堂への石段の手前を右手奥に入った辺に現存している。



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これは、秩父三十四カ所が出開帳した時の記念塔
明和元年(1764年)のもの。
西国三十三カ所と坂東三十三カ所、それに秩父三十四カ所の
百カ所を巡礼すれば、観音の冥利が最大に得られるのである。


護国寺では、他にも出開帳が頻繁に行われ、
多くの場合、音羽通りの町家から、商売繁盛のために出開帳の開催を求められている。







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これは気づきにくい、薬師堂の裏手にある
珍しい型の庚申塔(天明5年 1785年)音羽講と刻まれている。


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三袁が塔を支えている。




さて、その奥地、本堂の北側には広く墓所がある。
かつては、皇室墓所とほぼ同時期の明治7年(1874年)に
陸軍墓所が作られ、現在の青柳小学校の敷地なども含み
墓所の大半は陸軍墓地だったが、
現在では陸軍墓地は一カ所に集められている。


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これは建築家、ジョサイア・コンドルの墓


これで、護国寺はおわり。
本堂の周りをぐるりと回るだけでも、
護国寺の創建時から今日までの変遷、様々な歴史を感じる事ができます。










護国寺北門から、雑司ヶ谷霊園に
雑司ヶ谷霊園の開設も陸軍墓所と同じ明治7年だった。
そこを抜けて、雑司が谷鬼子母神近くの本納寺さんへ


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ここはあまり知られていないが、
きれいに行き届いたお庭のある、閑寂な空間である。


この日は、ご住職にお願いして特別に本堂のご本尊、
また雑司が谷所縁の江戸の文化人金子直徳が天明年間に寄進した
三光天像を拝顔した。
→ http://www.honoji.or.jp/s_sankou.html





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自然石の墓石が愛らしい。
明治から昭和にかけて様々な文化活動をした
秋田雨雀の墓。
雨雀は、日露戦争後から戦中までの間、この本納寺門前に住まい、
本納寺の先々代の住職兜木正享と、日蓮宗の教典や雑司が谷の歴史を研究する会を持っていた。
金子直徳とともに、雑司が谷の歴史に欠かせない、先達である。




境内墓所に遺る、江戸期石仏墓


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これで、今回のぞうさんぽは、終わり。
暑い中、拙い案内におつき合い下さり、ありがとうございました〜(^o^)










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以上、本文。

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以下、追記

追記:
6月8日の「護国寺 雑司が谷 寺まちあるき」の時には、
ご紹介出来なかった護国寺墓所の橋本夏子墓所を
その後、日本石仏協会理事の小松光衛さんに教えて頂きました。

本堂の真裏、
富士山測候所を作った気象学者野中至墓所の北側に隣接していました。

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野中家墓石の向こうに見える細長い石柱が
橋本夏子の墓碑銘。

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こちらは野中至ご夫妻のレリーフの入った野中家墓誌。



橋本夏子は、明治天皇の内侍で稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)を出産(死産)後、亡くなります。
稚高依姫尊は、護国寺東側の皇室墓所に葬られています。

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両脇に石灯籠があり、葉室光子墓所よりも立派に見えます。


背面には「明治六年第十一月十四日逝去」と刻まれています。
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石で固められた円墳で、同年九月二十三日に逝去した葉室光子墓所と同じ型です。
ただ見た目で葉室光子墓所よりもひと回り大きく、
基壇の石組も高いようにも見えます。
葉室家は名家、橋本家は羽林家で、格式は同列ですが、
橋本夏子が静寛院(和宮)の従姉妹に当たるなどが関係しているのでしょうか。




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東隣にある三条実美墓所の鳥居が見えます。


明治六年九月の明治天皇第一皇子である稚瑞照彦尊が死産にともない
東京での皇室墓所として豊島岡墓所が開設され、
その時に亡くなった母たち(葉室光子、橋本夏子)は
皇后でもない内侍なので、一緒に葬られる事はかなわず
お隣の護国寺に葬られた。
今では明治の元勲やジョサイア・コンドルも眠る
護国寺墓所は、そういう経緯から始まったわけです。











































posted by 星跡堂 at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | みちくさあるき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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