2013年12月07日

第6回ぞうさんぽ 「雑司ヶ谷霊園石仏めぐり 2」

11月30日、気温は低めですが快晴に恵まれておさんぽ日和。
雑司が谷弦巻通りの旅猫雑貨店に12時に集合。

案内役、コピーのサイズに手間取り、
少し遅れて到着でしたが、皆さんすでにそろっていらっしゃった。
早速、霊園を目指します。

旅猫さんから霊園方面へ登る坂には、
講談やTVドラマなどで有名な
「大久保彦左衛門(忠教)手植えの椎」と云われる古木がある。
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大久保家抱え屋敷 椎木(撮影N氏)

安政四年(1857)尾張屋版『江戸切絵図』には
確かに「大久保彦左エ門抱ヤシキ」と見える。
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右上の「御鷹部屋御用屋敷」とあるのが、現在の雑司ヶ谷霊園の一部に当たる。
真ん中を流れる青い筋は今は無き弦巻川の流れ。


雑司が谷では古くから「大久保彦左衛門」の手植えと伝えられているようで、
池袋本町にある重林寺には関東大震災までは
ここから移築されたという門が遺っていた。
→ http://www.tesshow.jp/toshima/temple_ike_jurin.html

しかし、
大久保彦左衛門の家は、抱え屋敷を持つような身代ではなく、
親類の美濃加納藩(大久保加賀守家)又は小田原藩の大久保家、下野烏山藩などの
間違いではないかと思われる。



さて、その椎の木を横目に坂を上って行くと
雑司ヶ谷霊園の樹々が横に見えてくる。

そろそろ落ちかけた銀杏の葉を、
かさかさと踏みながら
まずは、夏目漱石墓所に向かう。

というのも、
この日は、漱石の五女ひな子の祥月命日(11月29日)の翌日だったからだ。

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夏目漱石墓石の背後で(撮影N氏)



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左が夏目ひな子 「明治四十四年十一月廿九日」の墓碑銘
右が漱石の墓碑銘、
ひな子と漱石の墓碑銘は大正6年にこの墓所が作られた時に入れられたが
中央、鏡子夫人のものは、後に彫られているので、
字体や彫りが不釣り合いになっている。


ひな子を真ん中に漱石の子供達がそろって写っている珍しい一葉が掲載されているブログ
→ http://eblog.exblog.jp/3630075/


漱石の家は、漱石が五男ということもあり本家ではなく分家のため
自分の家の墓所が必要だった。

明治44年まだ2歳の雛子の死は、子供の突然死というもので、
漱石と鏡子のショックは幾ばかりだったろうか。
漱石は、その様子を翌年に東京、大阪朝日新聞に連載した
『彼岸過迄』にわざわざ「雨の降る日」という一章を割いて記した。
鏡子は『漱石の思ひ出』(昭和2年)所収「雛子の死」で
その時の様子を詳しく述べている。
この書に依ると、夏目家の菩提寺小日向本法寺と相当な諍いがあったようで、
漱石はそのため、墓を菩提寺に作らず雑司ヶ谷霊園に新たに求めた。

当初の場所は、今の場所ではなく1−5−25付近だったとされている。
しかも墓標は、漱石自らが書いた「小さい墓標」であったという。
どんな墓標だったのか、『夢十夜』を思い浮かべるが、
残念ながら、写真等の記録は遺っていない。
その後、津田青楓に墓石のデザインを依頼するという話もあったが、
沙汰やみになった。

漱石墓所に関しては以前にブログ「雑司が谷 日乗」に書いたので、
そちらを参照下されば幸いです。
→ http://zoushigaya.seesaa.net/article/140069282.html?1386657340


漱石墓所、表から見ると、 
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聳え立つような立派さは、弟子達には不評だったが、、


今から102年前の11月29日を偲んで、
ここから、霊園を廻って行く。



まずは、前回の霊園石仏めぐりでも
最初に案内した、無縁化している石仏へ。


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寛文五年(1665)銘 阿弥陀如来(供養仏)


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日本石仏協会理事の小松光衛さんのお話を伺う(撮影N氏)

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この石仏は、何年も前に無縁化したが、
前回の霊園めぐりの時に、
日本石仏協会理事の小松光衛さんにお頼みして石仏協会名で、
保存を正式に申し込む文書を霊園管理事務所と通して東京都に申請した。
それが幾らか効いたのか、無縁化撤去という事態は今の所免れている。
「日本石仏協会」のホームページ
→ http://www3.ocn.ne.jp/~bosatu/sekibutu/sekibutu1.html

現在の霊園管理事務所の所長さんにも、
もし撤去という事になっても、
霊園のどこか別の場所での保存して頂くようにお願いしている。


寛文五年の石仏は雑司ヶ谷霊園で現存する石仏としては、
2番目に古い。
次に向かうのは比較的新しい明和年間のもの。


途中で見事なアールデコ様式の墓所も
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廻りを生け垣で囲ってある中に
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明和七年(1770)銘の如意輪観音(撮影N氏)

雑司ヶ谷霊園の石仏の年代的な特徴は、
この明和の石仏以降は、幕末の嘉永年間までなく、
寛政や化政、天保のものが皆無ということだ。
もちろん、ここの江戸期石仏は全て東京の他の地域から改葬されたものだから、
単なる偶然かもしれないが、
改葬された墓所に江戸期末のものが少なかったという事なのだろう。


次の石仏への途中で、
島村抱月墓所に出会う。
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(撮影N氏)

隣の隣に遺る「まこちゃんのはか」
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この墓所が、抱月の愛人松井須磨子のものだという都市伝説が
雑司が谷には伝えわっている。



寛文八年(1668)銘 聖観音菩薩
大変愛らしいお姿だが、お顔の端正さなど寛文期の特徴も。
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この石仏の裏にはこうした碑があり
側面に「大正十一年六月建之」とある。
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寛文八年の石仏も、眞福寺から改葬された可能性が高い。
しかし、この眞福寺がどこの眞福寺かは未調査。
(「眞福寺」という名称の寺はとても多い)

次は、
元禄元年(1688)銘 地蔵菩薩(撮影N氏)
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こちらは、
先の眞福寺と同じようにお寺ごと墓所が改葬されたと思われる
長光寺卵塔 (撮影N氏)
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卵塔の台座側面には寺の歴史が記され
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「大正二年一月従下谷万年町當地改葬(下谷万年町より当地に改葬す」と読める。
こちらの寺は文書記載の記録もある。
長光寺は、斎藤月岑の『東都歳時記』(天保九年刊)に依れば
「江戸東方四十八所地蔵参」の第五番目で「延命地蔵」を祀っていたとある。


背後にある石仏群
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長光寺墓所のすぐ近くにひっそりと立つ
正徳四年(1714)銘 地蔵菩薩 (撮影N氏)
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こちらは、
宝永六年(1709)と享保十三年(1728)の女の子男の子、
それぞれの墓碑銘が彫られている地蔵菩薩
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こちらは、珍しい
アラビア文字の無縁墓石、
私の知る限りアラビア文字の墓石は雑司ヶ谷霊園には他にない。
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この墓所は無縁化撤去の危機に在るので、
現在、ムスリム関係者らが保存の可能性を霊園事務所と交渉している。


こちらは、上記墓石のすぐ近くにある西洋人の女の子の墓碑
幸い無縁化していないようだ。
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鬼薊墓所(圓常寺墓所)(撮影N氏)
鬼薊は歌舞伎「十六夜清心」のモデルにもなった大盗賊、
霊園でも有名だが、
同じ所に、霊園中最古の石仏がある事は知られていない。

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聖観音菩薩立像、慶長十五年(1610)銘
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先に見た寛文八年の聖観音さんよりもずっと大きく
でっぷりした肉厚で素朴な感じが如何にも古風。

ここは圓常寺という寺の墓所で、
圓常寺も大正二年に浅草鳥越町から寺ごと雑司が谷に移って来た。
寺は、今霊園の南に隣接している。
この観音像が如何なる由来のものか、圓常寺に伺った事が在るが、
不明との事で、残念。



無銘の如意輪観音、中々美しいお顔をなさっている。
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宝永八年(1711)銘 地蔵菩薩 (撮影N氏)
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大きなケヤキに凭れかかってお立ちになっている。
雑司ヶ谷霊園にもっとも相応しい、石仏だと、常々思っている。

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(撮影N氏)



享保十二年(1727)銘 如意輪観音 (撮影N氏)
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(撮影N氏)



貞享二年(1685)銘 地蔵菩薩 
古く素朴なお顔をなさっているお地蔵さん
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(撮影N氏)
みなさんが屈んでご覧になっているのは、、、

草に埋もれる二体の石仏、
元禄十年(1697)銘 如意輪観音 
延享五年(1748)銘 地蔵菩薩
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11月末だが、まだ黄葉が美しい
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(撮影N氏)


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こちらは、泉鏡花墓所
墓石に紅葉がかかる美しいお姿
霊園にある数在る文人の墓石の中でも最も美しいものと思う。
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こちらもかつては無縁化していたが、
今は供養なさっている方がいらっしゃるようで、無縁撤去を免れた
江戸期の櫛形墓石。
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けやき並木も色づく
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「布袋塚」と云われる、天保十二年(1841)銘のもの
松村松年墓所にある。
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美しい仏のレリーフのある仏塔
無銘のため年代は分からない。
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小松さんのお話だと、
石が関西系のものなので、向こうから持って来たかもしれないとのこと。
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石塔 無銘。
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網の向こうの石仏二体 (撮影N氏)
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元禄十年(1697)銘 観音菩薩
最初に見た無縁化している寛文五年の阿弥陀さんも美男子だったが、
こちらも美しい少年のようなお姿。
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もう一体の地蔵菩薩は、「慶」の字のみ読めるが年代不明
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慶長、慶安、慶應のどれか、小松さんも分からないとのこと。
とても古い江戸初期か幕末か。


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寛文十一年(1671)銘 如意輪観音
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雑司ヶ谷霊園で現存する最も古い宝篋印塔 
慶長十八年(1613)銘

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小松さん、先端の九輪のデザインが変わっていると指摘。
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この日、最後に拝見した石仏
貞享三年(1686)銘 如意輪観音
大変彫りが深い傑作と、小松さん
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側面から見ると、石がとても厚みがある。
多分、雑司ヶ谷霊園の石仏でも最も立派な石を使っているのではないか。
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参加された方のリクエストに応じ、
最後に「ハンス・グンデルト」墓所を訪れた。
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ハンス・グンデルトは、
ヘルマン・ヘッセの従兄弟ヴィルヘルム・グンデルトの息子と推定される。
1907年に生まれ翌年亡くなっている。
父のヴィルヘルムは、内村鑑三の友人で
明治から大正期に日本に滞在し布教活動や日本研究をしている。
ドイツに帰国後ハンブルク大学学長になっている。
ヘッセの作品『シッダールタ』Siddhartha(1922年)第2部には
「日本に居る従兄弟ヴィルヘルム・グンデルトに捧ぐ」と記されている。
(第1部はロマン・ロランに捧げられている)

国際基督教大学内村鑑三記念文庫
デジタルアーカイブ所収の写真に
内村鑑三のすぐ隣にグンデルト夫妻と、
ヴィルへルムに抱かれ夫妻の間で眠っている「ハンス」の写真が遺されている。
→ http://lib-archive.icu.ac.jp/uchimura/PDF/B001/0032.pdf
私は、この墓石を発見した後に
同文庫に雑司ヶ谷霊園に墓所が在る事を知らせた。
同文庫もこの墓所の存在は把握していなかったようだ。




これで、第6回のぞうさんぽも終了。
おつかれさまでした。ありがとうございました。




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(撮影N氏)





































posted by 星跡堂 at 20:17| Comment(7) | TrackBack(0) | みちくさあるき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは、「第6回ぞうさんぽ」より初参加させていただいたK.S.です
当日はお世話になりました。

"大久保彦左衛門抱え屋敷"に関して気になる点が幾つか有り
調べてみました

"尾張屋版『江戸切絵図』"の抱き屋敷の位置は変ですね?
我々が上った道は弦巻川(通り)に北側なのに、切り絵図は
南側に描かれてます。
御嶽坂や抱き屋敷横の道も省かれてるし、この切絵図を使って
迷子のなった人が多数いそうでです

少し時代はさかのぼりますが、明和9年版(1772年)の雑司ヶ谷村絵図
(豊島区郷土資料館発行)を見てみました、御嶽坂や抱き屋敷横の坂道も描かれてます
然し、抱き屋敷部分には"赤井越守様御抱地”の表示が???大久保家は何処に?

そこで付属の小冊子を見ると、P14の”柳下貞之家文書”の19項より抜粋すると
「万治年中の頃より赤井五郎作殿抱屋敷、享和元酉年中当時御目付大久保彦左衛門殿
え譲渡...」と記されており、万治年間(1658年〜1661年)から享和元年(1801年)まで
赤井家が所有、村絵図作成時は"赤井越守様御抱地”で正解ですね

譲渡された彦左衛門は、寛永16年(1639年)に亡くなった、御意見番の彦左衛門では無く
後代の彦左衛門ですね(大久保彦左衛門家の当主は代々"彦左衛門"を名乗ってた様です)

"手植えの椎”も享和元年以降に植えられた物なのでしょう
Posted by K.S at 2014年02月26日 00:11
K.Sさん、コメントありがとうございました。
またレスが遅くなりすいません。
色々と詳しくお知らせ下さり、感服です!(^o^)

柳下家文書は、
現在も雑司が谷二丁目にお住まいになっていらっしゃる柳下家に伝わるもので、
雑司が谷研究の基礎資料として重要なものですね。
同文書には、
雑司が谷村の起源や鬼子母神出現の由来なども記されていて興味深いですね。
『豊島区史 資料編一』に、他の部分も含め全文が翻刻されていますので、ぜひご覧下さいませ。
当時植えていた野菜の図(「草木撰種録」)なども描かれていて面白いですよ、、(^o^)
Posted by 星跡堂 at 2014年02月26日 00:34
星跡堂さん

K.S.です

コメントの移動ありがとうございます、お手数おかけしました

> 色々と詳しくお知らせ下さり、感服です!(^o^)

実は以前から、「なぜ江戸初期に、彦左衛門の抱き屋敷が雑司ヶ谷に??」と
気になっておりまして、今回調べる良い機会となりました、ありがとうございました


> 柳下家文書は、現在も雑司が谷二丁目にお住まいになっていらっしゃる柳下家に伝わる> もので、雑司が谷研究の基礎資料として重要なものですね。

偶々、昨年暮れに柳下家の最長老(先代の奥様)とお話をさせていただく機会を
得まして、いろいろと教えていただきました
NHKの"小さな旅"で旦那様が紹介されたときも、TVに写ろうとしたら「あなたは..」と断られた、と不満そうでしたが、墓地の撮影では出番が有ったとか...

> 同文書には、雑司が谷村の起源や鬼子母神出現の由来なども記されていて興味深いです> ね。
> 『豊島区史 資料編一』に、他の部分も含め全文が翻刻されていますので、ぜひご覧下> さいませ。
> 当時植えていた野菜の図(「草木撰種録」)なども描かれていて面白いですよ、、(^o^> )

柳下家の奥様の話では、「古文書は全部豊島区に寄贈した、職員の方がピンセットで
ページを一枚ずつ捲り大変そうだった」と活字化され製本されたと思われる本が並ぶ
本棚を指さされてました

柳下家文書やはり奥が深そうですね、近日中に読んでみます


Posted by K.S. at 2014年03月03日 20:15
K.S さん
柳下さんとお話なされたとのこと、それは良かったですね〜(^o^)
お墓がね、興味深いですよね。以前、公開された時に半日くらいかけて全ての墓石を記録しました。記録を奥様に渡したら喜んでいらっしゃいました。残念ながら一番のご先祖さまのものは新しいものになっていましたが、あのような墓の在り方が(檀家制度以前)遺っているのは貴重だと思います。
Posted by 星跡堂 at 2014年03月03日 23:58
星跡堂さん

K.S. です

コメントが遅れ申し訳ありません

お勧めの「豊島区史 資料編1」を入手、値段(\2,000)の割に
ボリュームの多さにっびっくりし、取りあえず柳下家文書を...
意外だったのが、"柳下家由緒書"に記されてる「相州足柄下郡柳下の住人...」と

柳下家のルーツは相模??、上方から直接雑司が谷に移住したと思ってたのですが、
相模で"大休止"?、都道府県別での苗字別世帯数を見ると、柳下姓は神奈川が300以上で
トップ(東京の区部,市部を合計すると、東京がトップなのですが、東京は色々有るので
除外)

肝心の、京都は一世帯、奈良は何と0、少なくとも上方を出たときは、別の姓を
名乗ってたのでしょう

> お墓がね、興味深いですよね。以前、公開された時に半日くらいかけて全ての墓石を記> 録しました。記録を奥様に渡したら喜んでいらっしゃいました。

例の公開日に行かれたのですね、私は残念ながら後で知ったのですが...、
先代のご葬儀の時に、列席する機会は有ったのですが、偶々友人の不幸が重なり
そちらを優先してしまいました

"記録"は、"紙"で渡されたのですよね?、すごい"アナログ人"でしたので..

> 残念ながら一番のご先祖さまのものは新しいものになっていましたが、あのような
> 墓の在り方が(檀家制度以前)遺っているのは貴重だと思いのます。

おそらく23区内では、唯一だと思うのですが、色々と調べても情報が得られません
もしかしたら外周区には、有るのだろうか??

Posted by K.S. at 2014年03月28日 22:38
K.Sさん
ご購入されましたか。いいご本でしょう〜(^o^)

「柳下家由緒書」は以前から気になっていて、
ちょっと忘れましたが、
他の中世資料にも足柄の柳下は出てくるので、それなりの勢力のあった家でしょうから、繋がりを無視はできないのでは。

戸張、長嶋についてもそれぞれの家に由来の伝説があり、後醍醐天皇の「雑司」というのは後年(この『豊島区史』に載っている嘉永6年の「沿革起立書上」の頃の創作の可能性の方が高いと、私は思っています。

墓所については、他にも似た形態のものがある可能性は大ですが、墓所はそれぞれの家のプライベートな場なので調査が難しい。それこそ歩いて見て廻りその家の方に聴くしかないですからね。
古墳は兎も角も(これもご子孫がいらっしゃるらしい皇室のものはできませんね)
同じ事で江戸時代後半以降の墓所調査は、今もご子孫の方が守っていらっしゃると、調査しにくい面があると思います。
Posted by 星跡堂 at 2014年04月07日 15:06

星跡堂さん

>ご購入されましたか。いいご本でしょう〜(^o^)

良い本を紹介していただきありがとうございました
他の豊島区史関連の資料も気になるところですが、資料編1
だけでもこれだけのボリュームですので、資料編1を消化
してからとします

> 「柳下家由緒書」は以前から気になっていて、
> ちょっと忘れましたが、
> 他の中世資料にも足柄の柳下は出てくるので、それなりの勢力のあった家でしょうから>、繋がりを無視はできないのでは。

以前港区の会社に勤務してた頃、同僚に神奈川県西部から通勤してた柳下という方がいて「代々農家で柳下姓だ」、「周辺の家も柳下姓が多い」等話しており
"雑司ヶ谷の柳下家と何か関係が??"と思い、いずれ詳しく話を聞くつもり
だったのですが、長距離通勤に耐えられなかったのか、短期間で退社してしまいました
今考えると残念なことをしてしまいました。


> 戸張、長嶋についてもそれぞれの家に由来の伝説があり、後醍醐天皇の「雑司」という> のは後年(この『豊島区史』に載っている嘉永6年の「沿革起立書上」の頃の創作の可> 能性の方が高いと、私は思っています。

そうですね、"ぞうしがや"の表記も"雑司ヶ谷"への統一にしても"将軍家(鶴)の一声"は
吉宗が、そんな細かいことまで口を出すとは思えないですし

それにしても雑司ヶ谷周辺には、"将軍家(鶴)の一声"伝説が多いですね

例1:腰掛稲荷の”腰掛”
   「将軍家光が、お成りになり切り株に”腰を掛け”た事により、”腰掛
    稲荷”と称する様になった」とされてますが、氏子からすると迷惑だったで
    しょうね
    氏子衆は"豊川神社 or 豊川稲荷"と称してた様です

例2:高田、雑司ヶ谷、小石川の境界(現目白通りと不忍通りの交差点)に有った
   "境木"に関しても、"将軍吉宗の「そのまま残しておけ」"の一言で残すことに
   成った、とされてますが、吉宗がそんな細かい指示したか、疑問です

「沿革起立書上」ですがこれを読んで、鬼子母神本堂前に有る"大釜"、以前より
"なぜ鬼子母神に大釜が?"と疑問を持ってたのですが、"釜"は出土した鬼子母神像を
洗っとされてる、柳下家の"釜"に由来してるのですね、遅ればせながら気がつきました
   
> 墓所については、他にも似た形態のものがある可能性は大ですが、墓所はそれぞれの家> のプライベートな場なので調査が難しい。それこそ歩いて見て廻りその家の方に聴くし> かないですからね。

そうですね、東京の場合明治維新後の旧東京15区(ほぼ江戸期の朱線内?)は
明治政府が、墓地を集中させようとした様なので柳下家墓地はまれなケースだと
思いますが、当時農村部だった、現東京23区の周辺部はどうなってるか??
自分の家の近くに、墓地があると成ると気味がる人や、地価に影響すると嫌がる
人もいそうですね

目白台2丁目の幽霊坂も、他の坂には有る案内板は設置されてないし...
これも、近隣住民を意識しての処理でしょうね。

Posted by K.S. at 2014年04月25日 23:12
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