2014年06月30日

第7回雑司が谷ぞうさんぽ「鎌倉街道から高田富士へ」


IMGP3282.JPG



まだ雨の名残が路地の紫陽花に残るなか、
正午に雑司が谷駅1番出口に参加者のみなさんに集まって頂きました。
スタッフの旅猫さんが急用で参加出来なくなって、
ちょっと事務に手間取りましたが、何とかはじまりました。

まずは、
鎌倉街道が、この雑司が谷駅1番出口のすぐ横を斜めに走っていたことなどを
岩田さんにレクチャーして頂きました。

鎌倉街道.jpg

雑司が谷から高田にかけての鎌倉街道推測地図


鎌倉街道遺構2.jpg

鎌倉街道の遺構発掘図
真横に走る大きな幅の道が都電の線路、それを斜めに横断する黒い線が鎌倉街道


鎌倉街道は確かに古い道ではあるのですが、
雑司が谷は江戸時代の道はそのまま残っていたりするので、
鎌倉街道の道筋が、今とは変わっているのはどうしてなのかと思いを馳せました。

IMGP3290.JPG


ちょうど鬼子母神参道のこの文具店の所で
現在の参道は鬼子母神の方へとやや西に曲がっていき、都電の踏切に至りますが、
鎌倉街道はこの文具店をまっ二つに突っ切る形で
真っすぐ進み、ちょうど副都心線1番出口付近へと繋がっていたと推測されています。

とすると、江戸時代初期に鬼子母神などが出来る、
またはその前に武芳稲荷が出来た頃から、道が変わっていったのかもしれませんね。
雑司が谷の最も古い古地図は明和九年(1772)の村絵図なので
それ以前の事は文献上は余り分りませんが、
その村絵図には既にこの文具店の所は現状のようになっています。

zousigayamura1 のコピー.jpg

明和九年の雑司が谷村絵図
真ん中を蛇行しているのが弦巻川の流れです。
左下に「南」と書かれている文字の
右上方向にある三つ又に分かれている所が、この文具店の場所で、
今も三叉路になっていますね。
江戸時代、ここには名主柳下勘右衛門(やぎしたかんえもん)の屋敷がありました。
この明和年間の絵図を作った方で、左下に「名主 勘右衛門」と書かれています。


さて、その後、
鎌倉街道を南へと向かうと目白通りに突き当たり、
そこが、神田川へと下る坂、宿坂の入り口になります。
雑司が谷駅1番出口には海抜27mという表示が在った記憶ですが、
目白通りはそこからもちょっと登った尾根にあるので30mくらいあるでしょうか。
ここから一気に下るのですから凄い急坂になるはず。
実際、宿坂の隣ののぞき坂は23区内でも一番の勾配最大13度(23パーセント)と云われています。

所が、この宿坂はそれほどでもない。
鎌倉街道だけあって人工的に平坦にならしたのかと思いきや、
岩田さんの説明だと、
ここは西側と東側で標高が違い、西側が低く東側が高い、その高低差を上手く利用しているとのこと。

IMGP3292.JPG



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確かに微妙にカーヴしているのもそのためか。


下った先にあるのは、金乗院(目白不動)
IMGP3301.JPG


この辺りが鎌倉街道の高田宿の上宿にあたると説明を受ける。

折角目の前に金乗院があるので、
ちょっとそこの説明をしてお寺の中も見学。
金剛院1.JPG


ここには不動明王の化身である倶利伽羅龍を彫った有名な庚申塔がある。
寛文六年(1666)の銘。ちょうど現存の鬼子母神堂が出来た頃です。

IMGP3304.JPG


雑司が谷法明寺境内にある
「蕣(あさがお)や くりから龍の やさすがた  富久」
戸張富久が詠んだ句に、酒井抱一が朝顔の絵を描いたこの碑の句の
「くりから龍」は金乗院の庚申塔を踏まえていたのではと思われます。



その金乗院門前の鎌倉街道を挟んだ向かい側に
参加者の方に教えていたのですが、
このお寺のすぐお迎えのお家に不思議な鐘が、
しかも捕り手が使う刺又(さすまた)と、火消しが使う鳶口も並んでいました。
古そうなもので、この家は昔からこの地の治安を守る役目を負っていたのかもしれません。
IMGP3308.JPG

こうした思いがけない発見をできるところが、
皆さんといっしょにまちあるきをする醍醐味ですね、(^o^)

 
さて、さらに行くと「怪談乳房榎」などで有名な南蔵院に当たりますが、
ここから道はまっすぐ行く道と東の方へと折れて行く道とに分かれて、
東方面と南方面と二つ街道が在ったとのこと。
(ブログ冒頭に掲示した地図参照)

一旦、東の方へと上宿の後の中宿、下宿辺まで歩く。
昔の宿場は上中下と分かれていた。
内藤新宿も四谷方面から順番に上町、中町、下町をなっていた。



その後、面影橋へと戻ると、橋の近くに、

IMGP3315.JPG

この如意輪観音の石仏は、元は貞享年間の銘があり、
なかなか立派な石仏。
左右に家紋もあしらわれていて、文字が消された跡もあるので、
何処かの家が先祖供養のために造立したものをもってきて
後に誰かが「山吹の里」と大きく刻み、この辺りに置いたものと思われる。

無縁になり廃棄されるよりは、こうした再生も良いかなと思う。

さて、この「山吹の里」とは、
太田道灌の山吹の里伝説の地ということだ。

 七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに 無きぞ悲しき

雨に降られて立ち寄った道灌に貸す蓑がないことを
後拾遺和歌集の古歌に託した村娘の話。

この典雅な逸話はとても美しいが、その一方で
この辺は太田道灌の支配する江戸及び牛込と
豊島氏の支配する地域の境界でもあった。
実際、道灌は、低地にあった赤城神社を牛込の台地の上に勧請し直している。
今もある牛込台の上の赤城神社からは、豊島氏の所領が一望出来た事だろう。


さて、面影橋(ここにも伝説があるのだが、今回は触れずに)を渡り、
この先を目指す。
亮朝院の手前を折れると、天祖神社に。
この辺りは江戸時代源兵衛村と云われた、その頃からの鎮守。
源兵衛村の謂れは、
江戸時代初期に豊臣家の遺臣小泉源兵衛がこの地を開拓した事に始まる。

天祖神社の緑はとても涼しく一息つけました。
緑の偉大さを感じますね。
天粗神社1.JPG



その神社の前を真っすぐに向かう小道があり、
岩田さんの説明だと、これは今の学習院女子辺から流れてきている小川の跡とのこと、そこで、予定にはないこの道を真っすぐに行く事に、、

IMGP3324.JPG


途中、民家の軒先すれすれを通り乍ら、猫ちゃんにも挨拶して、
水路2.JPG

行くと、早稲田通りにぶつかりました。


向こうの角には「子育て地蔵尊」が見えます。
ここもどうやら源兵衛のお地蔵さんだったようです。
源兵衛村子育て地蔵→ http://www.waseda-street.com/ja/about-nisiwaseda-showtenkai/kosodatejizo.html
寛文年間の庚申塔があるようで、
通りの向こうなので、止めましたが、行って見ればよかったかな、、
今思うと、ちょっと残念でした。
(天候と暑さを気にしていたので、こうした寄り道が出来なかったのは今回の反省点です。)


さて、早稲田通りに出てしまったので、また鎌倉街道との交差点で一本南に下がり、
高田馬場跡を横目に、戸塚小学校の横から水稲荷に到着。

本殿前で、
水稲荷は、元々は将門を討った俵藤太が「富塚」の上に稲荷を勧請し
「富塚(戸塚)稲荷」として創始された事や
その後、資料として配布した『若葉の梢』の記述から
霊水を吹き出した大榎があったことなどを説明。
さらに、
昭和39年(1964)に早稲田大学の拡張の為にこの地へ移転した経緯、
富士塚と高田富士との関係など、
元々は、一体化したものであったのに、
この地への移転に当たり、なぜか二分されてしまったことなども話しました。

水稲荷が遷ってくる前にも
ここには三島社(旧清水家屋敷内にあった)があり、それは今も境内に祀られています。


さて、その二分されたものの一つ、
本殿裏にある富士塚(富塚)へ

IMGP3160.JPG


昼なお暗く、大きな樹々が鬱蒼として赤い鳥居が異彩を放っています。

お穴の部分
IMGP3329.JPG



旧水稲荷境内の地図で高田富士とこの富士塚との位置関係、
全体の東側に高田富士が聳え、その西側に富士塚(水稲荷)があり、
「お穴」がどの辺に在ったのかを示す。
ちょうと「お穴」の先に部分に高田富士があったと思われる事なども話しました。
富士塚+高田富士の形からは、円墳というよりも前方後円墳のように思えます。
富士塚は後円部だったのか?とも。


ここで、雑司が谷にも似た様な「塚」が在るという話しになり、
「それを見たい!」ということになりました。
ここからはちょっと遠い、雑司が谷法明寺裏威光稲荷の「お塚」のことです。

さて、その後、
今度は境内の東の端にある「高田富士」へ
しかしここは中には入れないので、余り様子は分らないし、
なぜか周囲をぐるりと板塀などで囲い、外からは見えなくしている。
不思議な事だ。もっと外から見えるようにしてほしい。

IMGP3171.JPG


唯一覗けるのもこんな感じ。浅間神社の社が見える。
ここから山頂へと登っていくようだ。


毎年7月15日頃の週末3日間に「高田富士まつり」が催され、その時には開放され登れる。
昨年の様子をアップしている早稲田大学のブログ
→ http://www.waseda.jp/jp/ct13/130719.html



さて、この後は、富士塚と高田富士が元々あった場所、早大構内へ。

早稲田通りを南下していくと、右手の丘の上に穴八幡が見えてくる。
丁度、穴八幡の真横の辺から早大構内へと入っていく細い道がある。

IMGP3205.JPG


実は、これがかつての水稲荷の参道だったのだ。

scan-001.jpg

「江戸切絵図 大久保戸山高田辺之図」嘉永四年(1851)
(2回クリックすると大きくなり見やすいです)
高田富士がはっきりと富士の形で描かれ、
この参道の入り口に当たる場所に鳥居が描かれている。

ここを突き当たる先には巨大な白いビル。
これが富士塚と高田富士を破壊した早大の校舎だ。

IMGP3357.JPG


ここが突き当たりで、
そこで明治19年の陸軍東京実測図や『絵本江戸土産』『江戸名所図会』の浮世絵を示しながら、
この辺がどのような地形で、
また水稲荷や高田富士がどのように存在していたのかを、
皆さんが出来るだけイメージできるようにお話しする。

早大の敷地の南には水稲荷の別当寺だった寳泉寺が今もある。
接している大部分は墓地になっているが、
早大構内とその墓地との境界はこんな感じだ。
IMGP3195.JPG


相当に大きな高低差がある。
ビルの3階近くが隣接の寳泉寺墓所の高さに見える。
しかし、本来、高田富士は宝泉寺から大分上がった所にあった。

Ebi0526.08_24 のコピー.jpg


この『絵本江戸土産』の絵(右下にある建物が寳泉寺)を見ても、
上から滝まで流れている。それくらいの高低差があった。
とすると、早大は富士塚と高田富士を破壊する時に、
その上の部分だけではなくその下の土台の部分ごと丸ごと破壊したということだろう。
かつての富士塚と高田富士の北側は崖になっていて、
その下が、早大の構内だった。
要するに早大の構内は相当に低い土地に当たり、
今回訪れている場所から早大キャンパスに入るにはこの先の階段を数メートル下らないと入れない。
IMGP3218.JPG

説明をしている旧水稲荷参道の先の場所から早大キャンパスに下る階段は
これだけの落差がある。

scan-001 3.jpg

明治19年(1886)の東京実測図
(2回クリックすると大分大きく拡大し見やすくなります)
高田富士の丘とその周辺の地形がよく分かる。


富士塚と高田富士を破壊した早大の白いビルは、キャンパスの高さに合わせた地点から建てたのだ。
その為に、富士塚と高田富士は、この浮世絵にある土台ごと根こそぎ破壊されたのだ。
何と言うもの凄い事をしたものだ。
これが、1964年の東京五輪で沸き返る東京の空気だったのだろうか。
移転にあたっては、富士講連中から相当な反対があったという。
移転作業中に関係者が何人も亡くなったとも。
しかし、そのくらい根こそぎの畏ろしい事をしたのだ、早稲田大学は。
(この同じ歳、東大も駒込富士神社の旧地だった赤門裏にあった「椿山」を破壊しビルを建てた)

旧高田富士.jpeg

破壊される前の旧高田富士(左側の小高い丘)、
鳥居の向こうの階段を登った先が浅間神社で、
富士山頂へはさらにその先を登っていったようだ。
また、この左側に水稲荷のお塚があった。

気がつけば今年は、その愚挙からちょうど50年に当たる。
半世紀も前の事ながら、私は本当に残念でならない。
大学は本来、文化を守る立場にあるはずなのに、
江戸以来の文化、伝統、人々の思いを破壊してまで
キャンパスを拡張する必要があったのだろうか。

早稲田大学のサイトには「早稲田ウィークリー」というのがあり、
そこの記事「高田富士」→ http://www.waseda.jp/student/weekly/contents/2011b/1263/263j.html
この大学史資料センターの助教はしれっと書いているが、
どうも、何の「思い」もないように見える。
ま、それが科学的な「学者」としては正しい態度ではあるのだろうが。


さて、早大構内を後にお隣の寳泉寺にある
高田富士を造立した人物、高田藤四郎の墓所へ。
寳泉寺の境内で、高田藤四郎が如何なる人物だったかを説明。
彼と高田富士の造立の様子に関しては、
高田富士が造立されたという安永八年(1779)と同じ歳に書かれたという
朱楽菅江の『大抵御覧』に詳しい。
→ http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_03633_0017/index.html

藤四郎は、富士山に55回登り、
江戸の庶民が登る事のなかなか出来ない富士山をここに造立し、
誰もが登りそのご利益に預かれるようにした。
「新富士」(菅江は「高田富士」をそう書いている)造立のため
老若男女が先を争って土を盛っていったことなどを述べ、
さらには、富士信仰の系譜として富士の烏帽子岩に入定した食行身禄の弟子であったことなども説明した。
食行身禄と富士講→ http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=225

藤四郎自身は、この造立した「富士」を「高田富士」と呼んだ訳ではなく
食行身禄を慕い「東身禄山」と称していた。

高田藤四郎墓所
IMGP3364.JPG


とても小さい。
ここで、高田藤四郎は敢えて檀家寺に申し出て、
高田富士の麓に葬って欲しいと願い、
葬られたことをまず述べた。
しかし、その場所はここではなく、あの白い大きなビルの端の辺、
高田富士の北東側であった事等も説明した。

P1030269.jpeg


今は、高田富士もここにはなく、
参加者からは「可哀想だね」という声も漏れた。

P1030265.jpeg


墓石裏には、「天明二 壬寅年 五月十七日」と刻まれている。
檀家寺は別なので妻子の墓はそちらにある。
現在は寳泉寺住職の卵塔と並んで居る。
卒塔婆の施主も「寳泉寺」となっているので、お寺が供養しているのだろう。


寳泉寺墓所は、南側からも窪地になっているなだらかな地形で、
中世ならここが「神田」と呼ばれる天然の耕作地になったようにさえ思われる。
榎から水が湧いたとか、滝があったとか、美味しい水に事欠かなかった土地だろう。


『江戸名所図会』を見ても、「いもりの池」などもあり、
反対側の高台には「毘沙門堂」が描かれている。
高田稲荷神泉守宮池寶泉寺-2.jpg



反対側の南東側、今も土地が高い。
P1030290.jpeg

向こう側の高い所が南東側で
今は早稲田通りに面した法輪寺の裏手の墓所に当たる。
多分この辺りに「毘沙門堂」があったのだろう。


甘泉園の場所に屋敷を持っていた清水家の用人の村尾嘉陵が書いた
『嘉陵紀行』(文化年間〜天保年間頃)の絵図だと、その配置が分りやすい。
(写真をクリックすると拡大します)

jpegOutput.jpeg





さて、ここで今回の「雑司が谷ぞうさんぽ」はほぼ終了。
お疲れさまでしたと、ご挨拶をしたのですが、
だれも帰られる方はなく、
その後、寳泉寺前から鎌倉街道にあたる早大通りを抜け、
豊橋を渡る。
大正5豊橋付近.jpg

大正5年(1916)の地図、神田川が今よりもずっと蛇行していて
当時はその蛇行の頂点に豊橋があり、その跡が分かる場所などを検証。

さらに豊川稲荷をお参りして、
IMGP3380.JPG

豊川稲荷社殿の裏にひっそりとある愛らしい石仏

豊坂を登り、目白台へ。
ここで本当に終わりのつもりでしたが、
先の富士塚訪問時に出た、雑司が谷の「お塚」にも行きたい!という要望があり、

名物の雑二(雑司が谷二丁目)ストアを抜けて
ストアー.JPG

ここから更に法明寺裏の威光稲荷へお参りし、「お塚」を見学しました。

しかし、残念だったことがここでもあり、
威光稲荷のあのとても愛らしく味のあるおきつねさんが悉く
真新しいものに代えられていたのでした。
どうしてそんなことをするのかなと、本当に残念。

本来、寺社は古くて壊れていたとしてもそれを大切に愛でることを教える場のはず。
古くて壊れたから新しいものにつげ変えるのなら、
今の世の中一般と何ら変わりがない。
寺社の在り方を寺社の方々こそ、よ〜く考えて頂きたいものです。

第3回「みちくさあるき ぞうさんぽ」で威光稲荷を訪れた際の記事
以前あった古いおきつねさんのお写真もあります。
→ http://michikusa-walk.seesaa.net/archives/201206-1.html





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朱楽菅江『大抵御覧』の「新富士」(高田富士)の挿絵



今回の参考資料
『富士講の歴史 江戸庶民の山岳信仰』 岩科小一郎 (1983年9月)
『鳥居龍藏全集 第二巻』 (1975年12月)
『富士浅間信仰』 平野榮次編 (1987年6月)
「高田富士に関する資料調査と考察」 竹谷靭負
(「拓殖大学論集 人文・自然・人間科学研究 19」, 2008年3月)  → http://ow.ly/yAO1i
ほか


以上で、おわり〜(^o^)
お疲れさまでした。



IMGP3373.JPG






おまけ「麦藁の蛇」
麦藁蛇.jpg

旅猫さんが、7月1日の駒込富士「山開き」で、
『絵本江戸土産』「高田富士山」に
「麦藁の蛇等を售(う)る茶店を出し」と書かれていた
「麦藁の蛇」を駒込富士で受けて来て下さりました。
現在、雑司が谷旅猫雑貨店に置いてありますので、
ぜひ見に行って下さいませ。
駒込浅間神社では「神龍」と云うらしいですが。
→ http://members2.jcom.home.ne.jp/ichikondo/06%20yamabiraki,komagomefujo.html














































































































posted by 星跡堂 at 18:00| Comment(3) | TrackBack(0) | みちくさあるき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
K.S.です

星跡堂さん先日はお世話に成りました

> 明治19年(1886)の東京実測図

いただいた資料の地図ですね、帰宅後明治16年版の1/5000地形図と
比較すると微妙に違っており、何年版かと思ってたのですが、明治19版
でしたか...

明治16年版の1/5000 地形図”北豊島郡高田村近傍"のURLを下記いたします

http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-28.html

高田小学校は、すでに開校しておりが、当時は目白通りの南側という
一等地に有ったようです

又、後の高田豊川町と高田老松町の高田部分が小石川区に編入されておらず
高田村と成ってます(老松町の町家部分を除く(高田四ツ家下町))
現和敬塾東側から胸突坂の間です

> 左下に「南」と書かれている文字の
> 右上方向にある三つ又に分かれている所が、この文具店の場所で、
> 今も三叉路になっていますね。

この三叉路は、文具店では無く一本南側の寝具店前の三叉路だと思うのですが
いかがでしょう?
鬼子母神参道に合流する道の反対側は、目白台2丁目交差点の理髪店横に出ます

> しかも捕り手が使う刺又(さすまた)と、火消しが使う鳶口も並んでいました。
> 古そうなもので、この家は昔からこの地の治安を守る役目を負っていたのかもしれません。

新編若葉の梢 P191 "宿坂の關"項に以下の文が有ります

「關守八兵衛 この名の百姓があって、その家には今に突棒、指股及び
道中日記持ち傳えてる。今もその子孫が残ってる」

あの指股等の所有者が、この八兵衛さんの子孫だとしたらすごいことですね

> 水稲荷は、元々は将門を討った俵藤太が「富塚」の上に稲荷を勧請し
> 「富塚(戸塚)稲荷」として創始された事や

この甘泉園部分を含んだ、土地は明治半ばに清水家の手を離れ、大正年間までは、
彦根相馬家が所有してました。
その後、早稲田大学を経由して、水稲荷の所有と成ったのですが、この相馬家は
”平将門の子孫”と称してます

水稲荷を勧誘した俵藤太の敵の子孫が、一時所有してた土地に水稲荷が、移転するとは、不思議な話ですね。
こんな事に成るとは、平将門も俵藤太も考えもしなかったでしょう

Posted by K.S. at 2014年08月17日 21:17
K.S さま
コメント、ありがとうございます。
明治16年のフランス装の陸軍地図はとても美しいので有名ですね。
リンク、ありがとうございました。

旧鎌倉街道へと向かう三叉路について、
確かにおっしゃるようにもう一本南の筋の可能性もありますね。

改めて検討してみたのですが、
実は、
明和九年の村絵図に
「鬼子母神道」と書かれている道が、K.Sさんの指摘する床屋の脇に出て目白通り(練馬道)と不忍通(清土道)の交差する辺(高田四ツ谷町)に接する道なのではないかと。
現在の「鬼子母神参道」はこの明和九年地図では「清松寺領」と書かれている辺で途中迄しか描かれていないものなのではと。

とすると、
旧鎌倉街道のへの分かれ道にあたる三叉路はご指摘のように一つ南になるかもしれませんね。

明和九年村絵図と現在を照合する
一つの大きな目印は、「年寄安兵衛」の屋敷です。
ここは今も柳下安兵衛の子孫がお住まいなので、この場所が現在地との目安になります。

この辺り、嘉永七年の地図だとまた別の書かれ方がしていて、今一度実地に歩いて検討すると、楽しいかもしれません。



『若葉の梢』の「関守八兵衛」の下り、
読みました。確かにその可能性大ですね!

相馬家は相馬馬追いの家ですから、
確かに将門の子孫を名乗るのもさもありなんですね。

色々と
ご指摘下さり、勉強になりました。
ありがとうございました。
Posted by 星跡堂 at 2014年08月27日 15:29

星跡堂さま


K.Sです

> 改めて検討してみたのですが、実は、明和九年の村絵図に
>「鬼子母神道」と書かれている道が、K.Sさんの指摘する床屋の脇に出て目白通り(練馬> 道)と不忍通(清土道)の交差する辺(高田四ツ谷町)に接する道なのではないかと。
この道ですが、古くから雑司が谷と高田の境界です(昭和41年の住居表示寺変更により
目白通りが、境界と成りました)
境界道なので、正徳6年の高田村村絵図描かれてますので、比較するとわかりやすいです

又、南側は氷川神社の氏子町会、北側が大鳥神社の氏子町会のため、
例大祭時は(今年は今週末)両側で異なった神社の幟が立ち、変わった光景が
見られます

> 現在の「鬼子母神参道」はこの明和九年地図では「清松寺領」と書かれている辺で途中> 迄しか描かれていないものなのではと。

上記の様に、境界より南側は高田村なので、省略されたのでしょう、高田村村絵図には
この部分が描かれてます


> 明和九年村絵図と現在を照合する
> 一つの大きな目印は、「年寄安兵衛」の屋敷です。
> ここは今も柳下安兵衛の子孫がお住まいなので、この場所が現在地との目安になります。
安兵衛家の一本南側の道が、現不忍通りから旧高田小学校へ向かう道ですね
この道の旧高田小学校付近と、「鬼子母神道」と書かれた道を結ぶ道は既に有りますね

> この辺り、嘉永七年の地図だとまた別の書かれ方がしていて、今一度実地に歩いて検討> すると、楽しいかもしれません。

この地図の誤って書かれた「大久保彦左衛門抱ヤシキ」部分が、後に旧高田小学校の
敷地の一部に成ったのかと...、本納寺(本能寺と誤って書かれてるが)との距離が、
変ですが、これはこの地図全体で言える事なので、無視して..

この時点では、旧高田小学校正門前から、文具店への道が描かれており
80年余りの間に、開かれたようです

> 相馬家は相馬馬追いの家ですから、
> 確かに将門の子孫を名乗るのもさもありなんですね。

相馬家に関しては、まだ調べ切れてないのですが、千葉氏の出で下総国相馬郡を
領有した子孫が、相馬の名を名乗ったようです。
その後、さらにその子孫が本家筋とけんか別れをし、福島県の現相馬市、南相馬市付近を領有し分家し結果としては、相馬家の出世頭に成ったようです

彦根相馬家は下総相馬家からの分家との事です。
Posted by K.S. at 2014年08月31日 20:57
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